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批評の価値についての再考

友人のダンサーが単独公演をするというので、見に行くことにした。もちろん、ダンスを見るためにお金を払い足を運ぶのは初めてだった。

機会に恵まれ16時と19時、2度も見ることができ、それぞれ最後列左端、最前列左側と全く異なる場所からパフォーマンスを見ることができた。そのどちらも別の良さがあり、舞台全体の動きや演出がわかる最後列と、表情や筋肉、呼吸の機微を間近で体感できる最前列で鑑賞できたのは幸いだったと思う。

19時の回は、アルバイト先の同僚たちと一緒に見ていたので、そのあと男性メンバー2人と居酒屋で感想会をすることになった。

コンテンポラリー・ダンスは芸術性が高いジャンルであるので、素人が楽しめるのか少しの不安をポケットに隠しながら公演の席に着いたが、それは私だけでなく2人も同じらしかった。結果的に、すべてを理解し称賛するのは難しいというのも、3人の共通理解だった。

お酒が進み、話題もひと回りしたところで、再び公演の話になった。意図を読み取るのがすごく難しかった、今度会ったときにぜひ聞きたいと彼は言った。
私は「それは無粋ですよ。公演という形でお客さんに見せたんだから、我々が勝手に解釈していいんですよ」と主張した。
彼も負けじと「意図を持って製作してるから、作者の意図が正解なんですよ。それ以外も確かに別解かもしれませんが、正解を知りたいじゃないですか」と譲らなかった。
つまり、ここでの議論は作って見せたあと作者の意図は絶対的かと言い換えられるだろう。


さて、大学で受講している小説を書く授業で先生はこう言った。

「作者の気づかない面白さを指摘してあげられるのが、批評の面白さです」

この言葉がやけに残っている。

批評家の三宅香帆も「こちらが文脈を読み取ったり解釈したり、作者が正解を持っているわけではないという立場」として、作者が正解を持つ考察と比較して述べている。そこに批評の面白さがあるともしている。


表現には伝わり方にブレがあって、人によって受け取り方が異なっていて、だからこそ表現する人は揺らいではいけない意図をしっかりと伝えなくてはならない。でも、ブレも表現の面白さで、そこも込みで設計されるのが余白だと思う。その面白さは尽きない。だから、表現のために一生をかける人がいて、たくさん死んでいく。

だから、その命をかけた表現を誠心誠意受け止め考えたい。そんな鑑賞者になりたい。

そんなふうに改めて思えた出来事でした。