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ファッションの終焉|ユニクロ化するセレクトショップ

夏も終わりに差し掛かり、朝晩は涼しくなってきました。街中を歩くと、ショーウィンドウには秋冬の服が陳列されています。季節の変わり目になると、ついつい新しい服が欲しくなってしまいますね。

今季はどんなものが流行っているのかなとショップを覗いてみると、そこにはプルオーバーのパーカー、スウェットなどベーシックなアイテムがズラリ。さらに色味はカーキ、ブラウン、ワインレッドの単色ばかりで、ほとんど特徴のない、言ってしまえば「地味」なデザインがフロアを占拠していました。

なんだか、ユニクロっぽい

思わず口走ってしまった言葉ですが、あながち間違ってはいません。実は、いまファッションを取り巻く環境では、急速に「ユニクロ化」が起きているのです。

ファッションとは何か

具体的にファッションの周辺にどんな変化があるのか。それを考察する前に、そもそも「ファッション」という言葉の定義を明らかにしておいた方が良さそうです。

あなたは「ファッションとは何か」を説明できますか。

改めて考えると、定義が曖昧なことに気付かされます。なんとなく、オシャレに気を使っていたり、拘りのある人を取り巻く空気や関心事…のような、何者かよく分からない言葉です。

なんとなく雰囲気は掴めるけれど定義の曖昧な「ファッション」を哲学者の言葉から紐解いた一冊が『ファッションと哲学』です。タイトルからファッションの哲学的な解析が連想されますが、内容は哲学者・思想家の考えをファッションに参照した論考です。

多くの哲学者からの引用の中で、僕がもっともしっくり来たのはジャン・ボードリヤールの記号論を用いた解釈です。

自然と区別する機能を持っていた衣服から、社会的な差異化を生み出すファッション

ボードリヤールは消費社会を鋭く捉える思想家でした。モノの価値とは、モノの機能的な価値にあるのではなく、モノに付与された「記号」にあると説き、現代思想に多大な影響を与えた人物です。

確かに高級ブランドの価格が高いのは、機能が高いわけでも、労働生産(技術)が高いわけでもありません。また、高級ブランドを全員が手に入れてしまえば、誰も高いお金を払わないでしょう。つまり「他者との差異」があって初めて価値があるのです。

ボードリヤールは「他者との差異」こそが消費社会を構成する価値だと指摘します。高級ブランドに限らず、あらゆるモノは「他者との差異」が成立して初めて価値が見出されるというのです。これはモノ自体に「差異」があるのではありません。モノはただの「記号」であり、その記号を身に着けた自分が「他者との差異」を獲得できるという意味合いです。

ファッションとは衣服や装飾により「他者との差異」を獲得する概念というのが、僕の定義です。

ファッションが確立されたポストモダンの時代

ボードリヤールが生きたのはポストモダンの時代でした。ポストモダンとは「モダニズムの次の時代」という意味です。

モダニズムは20世紀初頭に台頭した芸術運動に端を発しています。モダニズムを一言で表現すれば、「機能合理主義の思想」でした。権威や伝統を遠ざけ、機能を追求する思想です。建築など分かりやすいですね。古くからある教会やお城のデザインは荘厳で流麗で、権威や伝統を誇示しますが、機能的には大した価値はありません。

モダニズムは産業革命と国民国家という人類史上における 2大イノベーションの強い影響を受けています。豊かになるには信仰や服従ではなく生産を拡大すること、宗教や王政の伝統的支配から国民が主権を握ること。これらは既存の権威を無効化し、市民が主権を掌握する近代の考えの拠りどころとなってきました。

しかし、機能合理主義に邁進した結果、人々は疲れてしまいました。まるで自分が機械のように感じられ、精神的な豊かさが感じられなくなってしまったのです。意味はないとしても、人生にはちょっとした遊びが必要です。昔の伝統を面白おかしくデフォルメして着飾ったり、なんとなく気分が上がるから派手な服を選んだり、人は機能から解放された余白を求め始めたのです。これがポストモダンの始まりです。

ユニオンジャックは英国連邦の国旗だと誰もが知っています。しかし、単純に「クールなデザイン」という理由だけで、Tシャツに大きくプリントされ、それを着こなす人が多く存在します。別に英国が好きなわけではないし、ましてや英国人でもありません。Tシャツに描かれたユニオンジャックは英国国旗という「意味性」を失い、「記号」と化したのです。無意味な装飾の復権といえますが、記号になんら権威性を帯びていないという点で、ポストモダンの時代における装飾の意味合いは、モダニズム以前の中世の時代と決定的に異なります。

ボードリヤールはポストモダンの空気を感じ取り、人々が記号に価値を見出す理論を大成させました。20世紀後半のポストモダンの時代では、伝統や権威から解放され、意味よりも記号を消費し、他者との差異を発生させる起動装置としてファッションが確立されたといえます。

「ファッション」から「ライフウェア」へ

では、ポストモダンを経た21世紀の現代で何が起きているのか。ファッションを取り巻く環境の変化を紐解いてみたいと思います。

ファッションが「他者との差異」であるならば、現代においてファッションは終焉したといえるかも知れません。

モダニズム、ポストモダンを経由した20世紀では、人生の主題は「社会の中でどんな存在になるか」「他者からどう認識されるか」が中心でした。ファッションの有する「他者との差異」の消費は、そうした主題の実現に寄与したことで大衆に受け入れられたのだと思います。衣服は自己表現で、その人の思想や嗜好の積極的な表出でした。自分がいかに「他者と違うか」というアピールも含まれていたのではないでしょうか。

いま、それが変わりつつあります。

21世紀に入り、流行を形成する世代は「他者との差異」にさほど執着を抱かなくなりました。自分の人生に他者など関係なく、「自分は何がしたいのか」「自分は何が心地良いと思うのか」という自己探求に主題がシフトしつつあるのです。

VUCA と形容されるように、現代は変化が激しく、先行きが不確かな時代です。社会の中でポジションを確立したところで、社会自体が変化してしまえば自分も吹き飛んでしまいます。そして、それは現実に頻繁かつ非連続で起きています。確かなのは「自分は何を感じるか」ということだけです。

冒頭で「ユニクロっぽい」と感じたのには理由があります。ユニクロは衣服をファッションではなく、「ライフウェア」と定義しているのです。「他者との差異」などに価値を置かず、生活を快適に心地よくするための存在。それが「ライフウェア」の思想です。

単にユニクロだけが「ライフウェア」というポジションでブランディングしているのであれば、セレクトショップは相変わらずファッションを前面に押し出せば良いはずです。ところが、現実には多くのショップから差異の源泉となるエッジの立った特徴は消え失せ、ユニクロ化に傾倒しているように映ります。

これはユニクロの「ライフウェア」がポストモダン後の時代の空気を的確に掴んだからに他なりません。

2010年代中盤にはノームコアという潮流が起こりました。ノームコアは「普通の格好」で、それは果たしてファッションと呼べるのか、いまいちピンと来ませんよね。ノームコアはライフウェアなのです。ファッションの文脈で語るから訳が分からなくなるのです。

スティーブ・ジョブズは黒のタートルネックのセーターがトレードマークでしたが、彼にファッションの拘りなどありませんでした。「毎日、服を選ぶのが面倒だったから」というだけです。また、シリコンバレーのワーカーは Tシャツにジーンズというカジュアルな装いで通勤しています。ビジネススーツへの反抗心のような「他者との差異」が動機ではありません。単に「動きやすいから」という即物的な理由です。

ファッションの終焉した時代では、衣服は差異の手段ではなくなり、自分を取り巻く外殻です。衣服からは記号性は失われ、変わって「快適」「選ぶ手間がかからない」といった体験価値が求められています。まさにユニクロがライフウェアで提供しているのは、このような体験価値です。

ファッションという刺激的な娯楽が終焉を迎えることは、寂しい気もします。しかし考えてみると、それは主役が衣服から人間に移り変わることのようにも思えてきます。ファッションの終焉は、より人間にフォーカスされた時代の訪れでもあるのです。

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