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斎藤環『キャラクター精神分析』批評


どうもこんにちは、吉山商店の「北海道産とろけるチーズの札幌油そば」を食べて、自身の油そば観に革命が起きている男、各駅停車です。

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今回は精神科医の斎藤環による書籍『キャラクター精神分析』の内容、そしてそこから連想した自分の考えについて書いていこうと思います。

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僕がこの本の中で「面白い!」と思ったことは大きく分けて2点あります。

それは以下の2つです。

① 「キャラ立ちというのは、換喩的に際立った特徴を持つこと」

② 「虚構のリアリティを担保するのが、キャラや設定を受容する人たちのコミュニケーションである」

これから、この二点について、順番に説明したいと思います。

① 「キャラ立ちというのは、換喩的に際立った特徴を持つこと」

まず1点目に、「キャラ立ちというのは、換喩的に際立った特徴を持つこと」という主張です。

そもそも、「換喩的」とはどういうことでしょうか?

まず換喩(かんゆ)とは、「表現したいことばを使うかわりに、その表現したいことばの近くにあることばを、代わりにつかうレトリック」のことです。

例えば、換喩の一つとして「白バイが追ってくる」というものがあります。
これは実際に「白バイ」に追われているわけではなくて、「白バイに乗った警官」を近い言葉の「白バイ」で例えています。

また、映画『シンゴジラ』では「霞ヶ関のはぐれもの」という表現がありますが、これは実際に「霞ヶ関」という土地で迫害されてるのではなくて、「官僚界」で肩身が狭いということを「霞ヶ関」という言葉で表しています。

また、「北朝鮮の黒電話」というのは、実際に北朝鮮にある「黒電話」を表しているのではなく、黒電話の様な形の髪型をした金正恩(キムジョンウン)のことを指します。

このように、「表現したいことばを使うかわりに、その表現したいことばの近くにあることばを、代わりにつかうレトリック」が換喩(かんゆ)です。

では、「キャラが換喩的に際立った特徴を持つ」とはどういうことでしょうか?

例えば「麦わら帽子」で換喩した表現から、僕たちは『ワンピース』のルフィをすぐに思い浮かべることができます。

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また、僕たちはやけにトゲトゲした髪型をみれば、それがアトムの髪型であるということがわかります。

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「キャラが換喩的に際立った特徴を持つ」とは、ルフィやアトムのように、キャラ全体の姿が自然と思い浮かぶような特徴をキャラが持っていることをいいます。キャラのある一部分を考えることと、キャラの全体像を考えることが意味として「近い」とき、キャラのある部分はキャラそのものに換喩できます。斎藤環によれば、キャラがそのように換喩的な特徴を持つことが「キャラが立つ」状態だというのです。

データベース消費と換喩的キャラ

ここからは僕の考えなのですが、日本のサブカルチャーにおけるキャラは、「キャラ立ち」を起こすために換喩的であること(あるキャラの特徴的な部分がそのキャラ自体を想起させること)が要求されることで、「メガネ」や「メイド」といった萌え要素が発展していったのだと考えます。

哲学者の東浩紀は著書『動物化するポストモダン』の中で、「データベース消費」という概念を打ち出しました。

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「データベース消費」はざっくり言ってしまうと「『萌え要素』を集めて組合せることでキャラは作れちゃうし、作ったキャラの『萌え要素』は別のキャラを生み出すためのデータベースとして保存されるよね」という考えです。


例えば綾波レイというキャラは「無口」「青い髪」「白い肌」「神秘的能力」といった「萌え要素」の集合によって作られていて、さらにその「萌え要素」は別のキャラを作るためのデータベースに保存されます。たとえば、1990年代後半から2000年代前半に流行した「セカイ系」というサブカルチャージャンルでは、明らかに綾波レイの「萌え要素」をデータベースから引き継いで制作されたキャラが見られます。(ex『イリヤの空、UFOの夏』の伊里野)

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「データベース消費」は20年前に打ち出された概念のためいろいろとツッコミどころがあるのですが(現に『キャラクター精神分析』の中でも批判されてるのですがややこしくなるのでそれについてここでは述べません。)、サブカルチャーにおけるキャラの需要のされ方を端的に表すものとして優れた批評性を持っています。

日本では換喩的な特徴(そのキャラ自体を想起させる特徴的な部分)、つまり萌え要素を持ったキャラが「キャラ立ち」のために要求されます。そして作り出されたキャラがまた個々の萌え要素に分解され、萌え要素を再度組み合わせることでキャラが無限に生成されていく・・・。

「キャラを立てるためには換喩的であることが求められる」という主張は、日本で他国に類を見ない程キャラが生まれることについてのヒントになりそうです。

①まとめ


まとめると、「キャラが立つこと」=「換喩的に際立った特徴を持つこと」とは、キャラがある特徴的な部分をもち、そこからキャラそのものを思い浮かべることのできる状態のことだと斎藤環は主張しています。
そして、「キャラが立つこと」を考えることはキャラが無限増殖する日本のサブカルチャー環境を考察することにつながるかもしれません。

② 「虚構のリアリティを担保するのが、キャラや設定を受容する人たちのコミュニケーションである」

そして、2点目に面白いと思ったのは、「虚構のリアリティを担保するのが、キャラや設定を受容する人たちのコミュニケーションである」という主張です。

(『キャラクター精神分析』p229)
いまや「リアル」を構成するメカニズムとは、「なにがリアルか」を確認させてくれるような、再起的コミュニケーションにほかならない、ということである。虚構内部で「リアル」が自律するためには、まずなによりも、その虚構空間や、キャラに関するコミュニケーションが先行していなければならない。

ここで斎藤環が言っていることとは、どういうことでしょうか?

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例えば僕たちが『鬼滅の刃』について語るとき、

「炭治郎のメンタルが強すぎる」

「善逸の台詞回しが面白い」

「鬼殺隊の柱が強くてカッコいい」

「下弦の鬼はなんで無惨に殺されないといけなかったのか?」
等々、『鬼滅の刃』のキャラや設定についてのコミュニケーションが繰り返されます。

この時、僕たちは当たり前ですが虚構のキャラや設定についての知識を共有し、コミュニケーションをとることになります。

そして、コミュニケーションが蓄積されるにつれて、僕たちは虚構の中のキャラや設定について、現実の生活で身近に起こったことを共有するかのように話すようになります。

それこそが虚構に感じる「リアル」だと斎藤環は言います。

もちろん、実際に『鬼滅の刃』のキャラが現実にいるわけではないですし、鬼が出没する過酷な明治の世界を僕たちが生きているわけではありません。
だからこそ、「リアル」=「現実」であるという表現は本来ならば適切ではありません。

しかし、僕たちが『鬼滅の刃』に関するコミュニケーションを繰り返すことによって獲得する、『鬼滅の刃』のキャラや設定が「実際に存在する」かのような手触り、感触を僕たちは「リアル」だとみなすのです。

よく、オタクたちの間では「あのアニメはリアリティがある/リアリティがない」という言葉が交わされます。

僕はこの本を読むまで「虚構であるアニメに感じる『リアリティ(現実らしさ)』ってどういうことなんだ」と不思議に思っていました。

しかし、『オタクのいう「リアリティ」はオタクの間のコミュニケーションによって発見されるものなのだ』という斎藤環の主張を聞いて、少し納得した気がします。

僕たちは実際の現実と、虚構空間の中にそれぞれの「リアル」を見ています。

そして、虚構の「リアル」は僕たちが虚構を共有して、キャラや設定についてコミュニケーションを繰り返すことによって作られていくのだと斎藤環は述べているのです。

聖地巡礼とリアリティ

僕は、この「虚構のキャラや設定を通じたコミュニケーションがリアリティを作り出す」という主張を聞いて、真っ先に『ゆるキャン△』という作品を思い浮かべました。

『ゆるキャン△』は、アウトドア好きの女子高生たちがキャンプをする日常系の作品で、現在アニメ、ドラマ、CDとメディアミックス化してサブカルチャー界隈に一つの牙城を築いているだけではなく、舞台となった山梨や静岡の「聖地」が観光客に楽しまれたり、コロナ禍におけるキャンプブームに火をつけた原因の1つとなったように、一般にも強く影響力をもった作品だと言えます。

僕は斎藤環のいう、コミュニケーションを通じた虚構世界の「リアル」の獲得が『ゆるキャン△』という作品にも起こっていると考えます。

そして同時に、その「リアル」は、『ゆるキャン△』においては聖地巡礼にという手段を用いてより効果的に獲得されていると考えます。

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どういうことでしょうか?

洪庵キャンプ場、ふもとっぱらキャンプ場、水明荘キャンプ場…山梨や静岡を舞台とする『ゆるキャン△』には多数のモデルとなった「聖地」が存在します。

この「聖地」は『ゆるキャン△』アニメ放送中から特に話題になり、SNSや動画配信サイトで「聖地」の場所を共有したり、実際に「聖地」でキャンプをする様子を発信と、様々なコミュニケーションを生みました。

聖地巡礼の研究者である岡本健は、2013年にアニメ『氷菓』の聖地、岐阜県高山市で開かれたイベント「カンヤ祭」に関するアンケートを取りました。
アンケートの結果では、イベント参加者の79.5%がTwitter、ブログ、Facebook、動画サイト、なんらかの形で情報発信をしていることがわかりました。

『氷菓』という別のアニメに関するアンケートではありますが、聖地巡礼がその作品のキャラや設定に関する人々のコミュニケーションを誘発するということが結果からわかります。

『ゆるキャン△』は、そのように聖地巡礼をうまく利用して、人々のコミュニケーションを蓄積していくことにより、「リアル」な感触を生み出すことに成功しています。

そして僕がここで強調したいのは、『ゆるキャン△』における「リアル」な感触は、ある程度『ゆるキャン△』製作側が意識的に作りだした部分もあるのかもしれないということです。


上記のインタビューの中で、TVアニメ『ゆるキャン△』シリーズのプロデューサー、堀田将市は、『ゆるキャン△』という作品が多くの人に愛されるようになった理由の一つとして、「ローカルを追究できれば、グローバルに受け入れてもらえる」と述べています。

「ローカルを追究できれば、グローバルに受け入れてもらえる」

この言葉を『キャラクター精神分析』に従って捉えるとするならば、聖地巡礼を促進し、広くオタクたちのコミュニケーションを誘発することで(ローカルを追求し)、山梨や静岡の各スポットに『ゆるキャン△』のキャラが「実際にそこにいた」という虚構世界の「リアル」が作り出され、キャンプブームや観光客の誘致に繋がり一般に広まっていく(グローバルに受け入れてもらえる)という解釈ができます。

このインタビューを見る限り、現在では製作者側にとって、いかに虚構の中に「リアル」な感覚をつくるか、つまりいかにキャラや設定に関するコミュニケーションを蓄積させるかが課題になっているのだと思います。

② まとめ

まとめます。
僕たちが虚構のキャラや設定に感じる「リアル」はその虚構を共有した人たち同士のコミュニケーションによって獲得されると斎藤環は述べています。
そして『ゆるキャン△』が聖地巡礼を用いて結果的に作品に「リアル」な感覚を作り出したように、虚構の作り手にとっても現実とは異なる「リアル」を作り出すことご課題になっています。

この本の残念ポイント

この本はキャラについて細かく分析した魅力的な本なのですが、全体に渡って残念な部分があります。

それは、この本を読むにあたって、前提となるサブカルチャーや精神分析関連の知識がかなり多いということ、そして登場するそれらの用語が本文中であまり丁寧に説明されないということです。

東浩紀、セカイ系、村上隆、伊藤剛、マンガ・アニメ的リアリズム…この本の中にはサブカルチャー用語、そして精神分析家ラカンの提唱する概念がこれでもかと出てきます。この本単体でそのすべてを理解するのは到底不可能です。僕もほとんどわからないところがありました。

この本の最後で、著者は「この本に触発された若い世代の批評を期待したい(意訳)」といっていますが、それならばもっとわかりやすく書いてくれてもよかったんじゃないだろうかと僕は思ってしまいます。

この本の残念なところについてより噛み砕いていうと、この本に書かれている内容の一部がサブカルチャー批評、ないしラカン好きの中での「内輪ネタ」でしかなくなっているのが読んでいてつらいです。

キャラの概念について、「ラカンがああいってたけどウケるよね」「サブカルチャー批評家の東浩紀がああいってたけどウケるよね」みたいな調子でずっと続くため、読み進めるのに骨が折れました。

終わりに

『キャラクター精神分析』は、難解な用語や概念で書かれた本で、一部読みづらいところもあったのですが、キャラについて深く考察していて非常に面白かったです。

とくに前述した2点、
①「キャラ立ちというのは、換喩的に際立った特徴を持つこと」
②「虚構のリアリティを担保するのが、キャラや設定を受容する人たちのコミュニケーションであるということ」
が僕としては刺激的でした。

現在僕は『ガールズ&パンツァー』というアニメのキャラについて掘り下げるために、「キャラ」という言葉に関する知識を集めています。『ガールズ&パンツァー』のキャラについての文章も今後書けたらいいなと思います。

あと、今回はnoteの更新頻度を上げるために、短くて簡単に書けそうな書評を選んだのですが、結局普段と変わらない分量になってしまい、時間がかかってしまいました。今後はもっと頻度を上げて更新できるようにします。

参考

岡本健,2017,「舞台ー日本のアニメ・マンガと観光・文化・社会」,山田奨治編『マンガ・アニメで論文・レポートを書く』ミネルヴァ書房p131-148