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一人の人間より大きなものはない

古くからの友人であるデザイナー、Mさんの話です。10年ちょい前、彼女が22、3歳の時に会ったのですが、
 
「井の頭公演で朝、一人で瞑想してる」と言うのです。
 
金髪で、小柄な、(当時で言えば)モーニング娘にでもいそうな今風の子でした。
 
「なんで?」と聞くと、
「頭の中にノイズがあって、それを消したい。テレビの砂嵐みたいなやつ」
「それで一人で瞑想してるんだ?」
「うん、木の下でやってる」

話を聞くと、ラジニーシを読んでいたり、マジックマッシュルームを食べたとか(そういう時代だったのです)、小さな求道者でした。それからの友人付き合いです。
 
僕からすると、田舎から出てきたデザイナー志望の金髪の女の子が、友達も、知人もおらず、都会でたった一人、毎朝、必死に井の頭公演で坐禅を組んでいるという姿を想像すると、何か胸打たれるものがあったのです。彼女は柔和で、おっとりした人でしたが(今でもそうです)、その内部には張り詰めて、今にも切れそうな弦のような危うさがありました。
 
お互いに、無職時代でした。僕は万馬券を当ててちょっとした金があったので、仕事を辞めて遊んでいた時だったのです。その金で一緒に放浪の旅に出たり、ふらふらしていたこともあります。とは言っても、私たちは男女の関係にはならず、あくまで友達でした。
 
彼女は、いつも僕に背を向けていました。旅行に行った時も一人でじっと湖を見たり、海を見たり、ビデオで何か撮ったりして、何やら必死な感じなのです。いつもぎりぎりで、張り詰めた感じでした。何か痛々しいのですが、どうすることもできませんでした。
 
一緒に美術館に行くと、面白いのです。僕たちは恋人同士ではありませんでしたが、普通、男女で入れば一緒に見て回ると思います。ところが、我々はいつもまったく別行動なのです。入るなり別れて、それぞれに好きな絵を好きなだけ観ている。遠くにいて、話もしません。時間が経つと、合流して帰る、という感じでした。とりわけ、彼女は一人でいることを好みました。
 
当時、Mさんはデザインの勉強をしていて、その手のテクニックが書いてある本ばかり読んでいました。そこで僕は彼女にクリシュナムルティを紹介し、読ませました。それから、カフカや、リルケや、ルソーといった世界的古典を紹介しました。こちらも若かったので、感化しようとしていたのかもしれません。デザインや芸術を志すなら、文学や哲学といった分野でもベーシックな本物を通り抜けていく必要がある、と思ったからです。ところが、その反応が面白いのです。
 
「クリシュナムルティ、どうだった?」
「良かったし、本物だと思うけど、今は本棚にしまっておきたいと思う」
 つまり、彼女は、自分の感覚で距離を置いたのです。
「リルケの『マルテの手記』、いいでしょう?」
「リルケよりルソーの『孤独な散歩者の夢想』が感じるものがあった」
 僕は感心しました。
「カフカの『城』良かったでしょう?」
「良かった」
「わけかわらないけど、読む前と読んだ後では何か違うでしょう」
「うん、何かが違う」
 
僕は、彼女は大丈夫だと思っていました。今は無職でも、誰一人彼女のことを知る者がいなくても、「君はすばらしい人になるから」とか「大成するから大丈夫」と言い続けてきました。なぜなら、彼女は自分の心身に基づいた、特有のバランス感覚を持っていたからです。そしてバランスの中に真実を求める真剣さがあり、新たなバランスを求めるようにして万物に誠実に対していたからです。
 
その時、「世界」が形作られつつあったのです。
 
クリシュナムルティだろうと、聖書だろうと、彼女にとっては広大な生の一断片にすぎません。その断片を統合し、一つの形にするのが一人の人間であり、創造であり、自由であることを、彼女は本能的に知っていたのです。
 
「自分より大きなものは、この世界にない」ということを。
 
求道的な多くの人が、様々な「断片」に過ぎないものを「全体」とし、「絶対」とし、「観念化」して、その影響化で自らの世界を形作ってしまいます。いわば、聖なる教えや、一つの体系、一人の覚者や、教祖、メソッドが、自分という存在の上位概念になり、守ってくれる傘になり、その観念世界の中で自分を定義づけて、安心して生きていこう、とするのです。
 
この世界があまりにも混沌としていて、愛がなく、不安定で、わけがわからないので、何でも良いからそれっぽい一断片にすがりつき、安心・安定を求めるのです。それが「聖なる教え」であれ、「斬新な社会システム」であれ、「陰謀論」であれ、「カリスマ」であれ、何であれ・・・それが人の弱さであり、悲しき凡庸さというものです。しかし、そうした依存的傾向は、この崩れかけた世界を生きる我々にとって、必然であるのかもしれません。おそらく、我々は今、あまりにも不幸なのです。
 
支配者層や、搾取層が与える観念の下で、人々は安心立命を求め、ありがたがり、歓喜して集う――これが宗教の原理であり、現代のスピリチュアルと言われる世界の様相でもあります。「聖なる教え」なり「悟り」なり、「瞑想の方法」が、一人の人間より大きなものとして喧伝され、そこに集まった人々は、その偉大で、真実で、完成したように見える教えの下で、安心して生きることができるのです。
 
けれども、一人の人間にとっては、仏陀の言葉であれ、聖書であれ、ドストエフスキーの小説であれ、マルクスであれ、「一断片」でなくてはならないのです。
 
一切は、断片です。
 
一人の人間だけが、それらの断片を調和付け、有機的に結びつけ、自由に、独自に、この世界に意味を生み出すことができる。万物と愛の関係を自ら作り出すことができる。そこに、一人の人間の素晴らしさがあり、本当の自由と愛の可能性があるのです。世界全体に対する責任もまた――このことがわからないと、真の創造や、オリジナリティは決して生まれません。
 
それがどんなに美しく、どんなに真実で、どんなに美しい理論を持っていたとしても、断片を絶対化し、その断片を信じた時、最終的に人は卑小になり、凡庸になり、残念ながら暴力的になるのです。ヒトラー、スターリンは言うに及ばず、マルクス主義を原理的に盲信し、国民の四分の一を虐殺するに至ったポル・ポトにもなれるのです。
 
キリスト教とイスラム教、ユダヤ教といった一神教を自らの上に抱いて絶対化してしまった人々の不寛容と戦争の歴史は、テロリズムという形となって今でも延々と続いているのは言うまでもありません。殺生を禁じている仏教徒でさえ、日本においても様々な宗派が対立し、武装して、殺し合う歴史があったのですから。
 
重要なのは、美しきものであれ、醜きものであれ、聖なるものであれ、力であれ、一つの断片に過ぎないものを人間存在を支配する全体として扱ってはならない、ということです。
 
真に優れた芸術家は、みな、このことを本能的に理解しています。彼らは、自らの世界を形作り、より豊かに、大きく、真実なものになするために、万物を自らの栄養として認識し、吸収して作品を形作ったのです。
 
さて、Mさんはデザイン会社で働いた後、紆余曲折あったものの、フリーランスになって、某テレビ局の月9と呼ばれる看板ドラマのポスターのデザインまで担当するようになりました。田舎から一人で出てきて、無職で、社会において何ものでもなく放浪していた彼女が、マスコミの中心の仕事をするようになっていたのです。とは言っても、自分から仕事の話をすることはまずありません。聞けば「この芸能人はこんな人だった」「あの女優は9頭身あった」と教えてくれることもありましたが……お互いに無職時代から知っている間柄としては、「よかった、よかった」と思っていました。
 
ところがちょっとしたトラブルがあって、最近、Mさんはその業界から足を洗ってしまいました。デザイナーとして成功しても、「満足できないし、これは商業デザインなので自分の作品ではない」と彼女はジレンマを抱えていたので、ちょうどいいタイミングだったのだと思います。世俗の成功は、彼女の求める充実とは何の関係もなかったのです。
 
今のMさんの夢は映画監督になることだそうです。学校に通い始めたということですが、いずれちゃんとしたものを作る人になると思います。才能うんぬんだけではなく、こういう人には、しかるべき時にサポートが入るのです。
 
先日、無我研のメンバーと「引き寄せの法則」の話になって、僕が批判的なことを言った時、編集会議にたまたま参加していた彼女は、こう言いました。
 
「でも私、こうならないかなと思ったら、だいたいそうなるよ」
 僕は笑いながら返しました。
「きみはね、自分で思っているよりはるかに恵まれている人なんだよ」
 
世界は、断片から成り立っています。
 
それを統合し、自らのやり方で結びつけ、形作るのは一人の人間です。「私」というエゴの単位さえ、世界の中心にあるのではなく、断片です。
 
「私」という観念もまた、石ころや、花や、一つの観念と同じものにすぎない、と認識できた時に、世界が一転します。そこから先に、創造的な新たな地平が開いてくるのです。
 
※このMさんとの出会いを『秋』という象徴的な短編小説(短編小説 秋 | MUGA表現研究会 (mugaken.jp))として書いたことがあります。この小説の中では、Mさんは過去に出会った人であり、その思い出という形になっています。

今、彼女は結婚し、子供ももうけ、再びテレビドラマのポスターを作る仕事に復帰しました。今の悩みは、小学校低学年の一人息子が不登校になってしまったとのこと。仕事に、家庭にと忙しいようです。それもまた、彼女が豊かな人生の中にいることの証のように思えます。

(アメブロ掲載記事2013年・改稿)


 

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