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中国皇后記9 愛されし東晋の賢后達
こんにちは、翎浅(れいせん)と申します。今回は、五胡十六国時代に存在した、東晋の皇后を紹介します。ぜひ、色々な皇后を見ていってください。
1 元敬皇后·虞孟母
生い立ち
元敬皇后虞孟母(278年〜312年、げんけいこうごう·ぐもうぼ)は、東晋の初代皇帝·元帝の皇后です。虞豫と正妻の王氏の間に生まれました。美貌と優しい心の持ち主でした。文墨に精通し、道理を知っていたそうです。早くに両親を亡くし、貧困に苦しみました。しかし、虞孟母の名声を聞きつけた王時代の元帝(276年〜323年)に嫁ぎます。夫婦仲は良かったですが、2人には子が生まれません。
当時、元帝は宮女であった荀氏を寵愛し、2人の息子が生れました。しかし、それ相応の身分が与えられず、息子がいなくとも愛されている、虞孟母に嫉妬しました。荀氏は卑賤の出身だったので、受け入れるしかありません。それでも虞孟母への不満を抱かずにはいられず、それを知人に吐いてしまいました。その話は、元帝のもとにも伝わり、激怒して荀氏と疎遠になりました。その後、荀氏は王妃を愚弄した罪で、王府を追い出されて、馬氏という人物に再嫁させられました。一時は非常に寵愛し、2人の皇子の母である女性を追い出すくらいですから、虞孟母への元帝の深い思いが分かります。虞孟母は、2人の息子を代わりに養育しました
虞孟母の最後
しかし、虞孟母は35歳という若さで亡くなりました。元帝や息子達は、その死を深く悲しみました。元帝が晋王を自称すると王后に、皇帝となると敬皇后を追贈されました。元帝は生前に他の女性を皇后にすることはなく、虞孟母への深い愛を示しました。また、養育した後の明帝は、義母の養育の恩に深く感謝し、家族を厚遇したとされています。建平陵に葬られました。
2 宣太后·鄭阿春
生い立ち
宣太后·鄭阿春(?〜326年、せんたいこう·ていあしゅん)は、東晋の初代皇帝·元帝の側室で、簡文帝の母です。父は鄭凱(ていがい)、幼い頃に両親を亡くしました。鄭阿春は、4姉妹の長女であったといいます。最初は、家族を養うために田氏という人物に嫁ぎました。1人の男子がいましたが、夫は亡くなりました。身寄りがなかったので、家族と共に叔父の呉氏の元で生活しました。ちょうどこの頃、琅琊王である後の元帝は、妻の虞孟母を亡くしました。彼は非常に妻を愛していたため、他の正妻を立てたくありませんでした。しかし、家を取り仕切る人物が必要だと感じ、呉氏の娘を新たに夫人に立てようと結納を交わしました。しかし、運命の歯車は狂い始めました。元帝は呉氏の娘がどのような人物か、呉氏の家にやってきました。鄭阿春はこの時、呉氏の娘と共に庭で遊んでいました。元帝の臣下かは分かりませんが、ある人物が鄭阿春を見て「彼女は呉氏より、はるかに賢明で美徳のある女性です」と言いました。元帝はその助言に従い、寡婦であるはずの鄭阿春を娶ることにしたのです。それだけ鄭阿春は、魅力ある女性だったのでしょう。鄭阿春は琅邪王夫人となり、大いに寵愛されました。元帝は鄭阿春のために妹たちの嫁ぎ先を手筈したり、その夫を高官にしたりと鄭阿春を喜ばせたそうです。
即位後
元帝が皇帝に即位し、鄭阿春は夫人に立てられました。しかし、元帝は長男(明帝)と3男、4男に母親への礼をもって接するように命じ、事実上の養子としました。それだけ信頼されていたのでしょう。この年、元帝の5男を出産しました。しかし、息子は亡くなってしまい夫婦は大変悲しみ、元帝は食事も喉に通らず、葬儀を豪華にしすぎて臣下に諌められるほどでした。その1年後、鄭阿春は懐妊して6男(簡文帝)を出産しました。その後も1人の公主を儲けました。鄭阿春は長く大切にされ、後宮のトップとして君臨しました。
鄭阿春は夫が亡くなると、太妃となり義理の息子である明帝の在位中に亡くなりました。のちに実子が即位し、孫の孝武帝によって宣太后に追贈されました。嘉平陵に埋葬されました。
3 明穆皇后·庾文君
生い立ち
明穆皇后・庾文君(297年〜328年、めいぼくこうごう・ゆぶんくん)は、東晋の2代皇帝・明帝(299年〜325年)の皇后で、成帝(321年〜342年)と康帝(322年〜344年)の母です。庾琛と妾との間に生まれた娘でした。性格は慈悲深く、美しい女性で明帝の父・元帝に見出されて、太子妃となりました。寵愛を受け、2男1女を産みました。
明帝が即位すると、皇后に立てられました。その美名と秩序によって後宮はよく治まっていたといいます。しかし、明帝は息子がわずか5歳の時に崩御し、幼帝として跡を継ぐことを余儀なくされました。明帝は非常で有能であり、彼が生きていれば東晋はもっと長く続いたとされるほどで、皆がその死を深く哀悼しました。庾文君は皇太后に立てられ、やむなく垂廉朝政を行いました。慎み深い態度で行い、親族への褒賞などはほとんど断ったとされています。そんな矢先、謀反が起こり宮殿は占拠されました。庾文君は屈辱を受け、悲嘆のあまり亡くなったとされています。明穆皇后と追贈され、武平陵に埋葬されました。
4 康献皇后·褚蒜子
生い立ち
康献皇后·褚蒜子(324年〜384年、こうけんこうごう・ちょさんし)は、康帝の皇后で穆帝(343年〜361年)の母です。父は褚裒(ちょほう)、母は謝氏。生まれながらにして美しく、非常に教養があり、性格は聡明で寛大でした。その美名から成帝は弟に彼女を娶らせました。
そんな中、夫が皇帝に即位して皇后になります。2人の間には息子が生まれますが、なんと1年後に夫は逝去。わずか2歳の息子が皇帝となります。褚蒜子は皇太后となって、垂廉朝政を行いました。ちなみに褚蒜子は中国史上初めて、皇后の身分で次期皇帝を生んだ女性だそうで、改めて考えると確かにそうなので、とても面白い発見でした。褚蒜子は賢明に皇帝を導き、外戚に対して厳しく接したといいます。息子が成人すると政権を返し、決して権力を悪用することはありませんでした。しかし、息子は早世してしまい、後を継いだ哀帝、廃帝、簡文帝、孝武帝と夫を含め6人の皇帝を支えました。3度の垂廉朝政を行い、その期間は40年にも及びました。東晋を支えた偉大な皇后です。康献皇后と追贈され、夫の崇平陵に合葬されました。
まとめ
今回は東晋の賢后について紹介しました。あまり有名ではないので、知っていただけて嬉しいです。東晋には他にも成恭杜皇后や文太后、穆章何皇后、哀靖王皇后、簡文順王皇后、恭思褚皇后などなど。沢山いて驚きです笑。以上で終わりとさせていただきます。