枝豆が食べれるようにって開けた世界
今年ついに28年間嫌いな食べ物「豆類」を克服しました
決して好きなった訳ではなく
大人になったから味わい方が変わったという訳でもなく
苦手意識は残りつつも食べられるようになったというのが正しいかもしれません
ただ長年好きか嫌いかで判断していたものが
それだけではない何かに気づけるようになったのだと思います
物心がついた時には豆が嫌いでした
自分の記憶で一番古いものは
朝ごはんの食パンに塗られたピーナッツジャムーを美味しくないと思ったこと
他の、イチゴやチョコ、ブルーベリーのジャムと比べて
独特の臭みがあるピーナッツジャムがどうしても苦手で「嫌い」のレッテルを貼ってしまったんだと思います
その臭みに気づいてしまってから
同じ臭みを持つ豆類、ピーナッツ、アーモンドなどのナッツ類はもちろんのこと
枝豆や納豆も食べられなくなってしまいました。
納豆に関しては、「どうしてただでさえ嫌いな豆をさらに腐らせてネバネバさせた物体を口に入れなくてはいけないんだ」と本気で考えていた始末
(今ではほぼ毎日美味しくいただいています)
でも、それを家族や友人に話しても理解はされません
「豆って独特の臭みがあるじゃん??」と問いかけても
「は?そんなのなくない」と共感はゼロ
むしろ「枝豆を食べられないなんて人生の半分を損してる」お決まりの返しがくる
あなたの家が枝豆農家ならその言い分に多少なりとも納得はいくけど
何を持ってそんな事を言っているの?と心の中で反論します
(口には出さないよ、、)
この表現をする人は
「世の中からそれがなくなったら、残り半分の人生しか楽しめないのかー、可哀想だね」とか
「君の人生は枝豆に支えられてきて人生なんだね」とか皮肉をぶつけたくなる。
アラヤダイケナイ、私ったら
そんなこと本当は思ってない出すよー
とまぁそんな感じで
お豆とは距離を置いてきて人生でした
成人してお酒を飲むようになると枝豆を食べなきゃいけないことが増えました。
居酒屋で”とりあえず”が似合うメニュー、第1位の「ビール」に次いで
2位の「枝豆」(山口調べ。。調べてないから、山口感覚)
なんなら頼みもしないのに「お通しです」って、問答無用でササっと小鉢と殻入れを置いていくお店も結構ありますよね。
出されたものは残せない山口。自分の分は必ず食す。
これを繰り返すうちにいつの間にか食べられるようになりました
これもまだ、好んで頼む事はありませんが
ナッツは類はまだ少し苦手の部類にはあるかもしれませんが
脂質などの要素を考えて摂取するようにすると
味はダメでも食べれるものへと変化しつつあります
そんなこんなで今日まで
枝豆⇒納豆⇒クルミ⇒ナッツを
「嫌い」から「まぁ食べれる」まで昇華をさせた私ですが
気付いた事が一つ
小さい頃から、物事の大枠を
「好き」か「嫌い」かで判断を強いられていた
難しい判断ができず
”○か×”の二元論でしか考える事が出来なかった
それが年を重ねるにつれて、語彙がふえ沢山の細分化された状況を示せるようになる
「好き」「好み」「あり」「苦手」「無理」「嫌い」「拒絶」etc…
○×以外の△や◇などの他の図形で表現できるようになった
大人にはその人なりのボキャブラリーが蓄積されている
そう考えると大人の「好き嫌い」って何なんでしょう
物事を単純化するためにあえて二元論的に考えるのいいとして
あまり考えずに判断している人がいるようにも見えています
好きな人、事に盲目なる人や
嫌いなから目を逸らして否定をする人
生理的にNGなこともありましょうが、ちょっぴり心配
「あの人が嫌い」とか「アイツ、ムリ」とかってよく使われますよね
(私はよく言われていた側なのでそのの視点で話してます)
その嫌いな理由がどこにあるのか
見た目なのか、性格なのか、言動なのか、仕事の仕方やクセなのか
沢山ある人を構成する要素の中で、何が苦手なのか嫌いなのかを考えるとその人の見え方は変わってくるように思います
「あの人の仕事ぶりは憧れるけど、言葉が使いは嫌い」
「清潔感には欠けるけど根は優しい人」みたいに
はなから嫌いと突き放してしまうよりは
人間関係も少しは楽になるのではないでしょうか
まだ、対人関係向かっている人はいいですが
たまに“自分が嫌い“と大きく括ってしまう人をたまに出会います
「自分の好きなところは一つもない」と
「そんなに素敵なのに、そこまで自己否定しないでー」と抱きしめてあげたくなります
そんなかたは、自分のどこが嫌いなのか
○か×かだけでなく、もっといろんな図形で自分を見れたら
好きにならなくても、咀嚼し味わうことぐらいはできるのではないでしょうか
小さな豆から蔓が伸びてきた
豆が食べれるようになったらそんな事を考えられるようになりました