【短編小説】遊生夢死

 目を開けると、そこは荒廃した自身の職場だった。

 柱の面影や机の残骸には見覚えがあった。天井は無く、壁も吹き飛ばされたのか、ひどく風通しが良くなっている。ドアや窓も当然無く、辛うじて残った観葉植物が虚しそうに風に靡いていた。

 おそらく4階フロアだった。自分はソファに腰掛けており、周りの損壊具合を見ると奇跡的な残り方だった。脚一本くらい無くなっても然るべし、という状況で、安っぽい革のクッションには傷一つ付いていない。むしろ、ここだけ新調したかのように、記憶にある引っ掻き傷も綺麗になっていた。

 直感的に「ああこれは夢だな」と理解する。しかし、現実へ戻ろうとすると、どこからか眠気が押し寄せてくるようで、覚醒をひたすら拒まれる。

 1人、そうやって夢の中の荒地で、ソファに座ったまま悶絶していた。

「貴方、何をしているの」

 と、少女が急に目の前に現れる。黒い髪に陶器のような肌、赤々と艶めく唇。それから星の色をした大きな瞳。彼女に対して、至極全うに、生真面目に答えた。

「目を覚まそうとしている」

 その答えに対し、少女は表情一つ動かさずに、仮面を貼り付けたような美しさで言う。

「貴方以外のものは失われてしまったのよ」

 違いない。自分はそれを理解している。
「見れば分かるよ」
「そう——」
 少女の表情が動く。眉を顰め、睫毛が下がった。「もっと悲しむと思ったのですけれど」
「まだその時ではないよ」

 こうしている間にも、一応は覚醒を試みてはいた。まあ無理そうだと諦め、肩の力を抜いて、ため息を吐きながら少女に向かって手を出した。

「まあ、俺はまだ残っている」
「わたしでは不満が」

 意図を掴みかねて首を傾げると、彼女は不機嫌そうにそっぽを向いた。

「ため息」
「ああそれ。それは、俺自身に対する不満だ」
「どういう——」
「おいそれと思い通りに出来ないんだな、っていう自分への呆れ」
 へえ、と言った彼女は、表情がぱっと明るくなった。
「そう。じゃあわたしが一緒に居てあげる」そう言って手を取る。


 夢の荒地で、黒髪の少女と手を繋いで歩く。
 彼女のことは知っていた。だから「白雪」と声を掛けた。

「なんですか」手を引かれる彼女は笑顔だった。「わたしに何か頼み事ですか」
「いや」
 今更になって、確認したくなっただけなのである。
「俺が知っている白雪で合っているか気になって」
「その白雪で間違いありませんよ」


 瓦礫の山を踏み締め、足に感じるのはどこまでも残骸ばかりだ。乾いた木とコンクリートの破片、砂利と埃。元の形も思い出せなくなるくらい、そこには何も残っていない。
 かと思えば、目の前に下の階への階段が、ぽっと現れたりして。

「夢とはかくも都合の良いものか」

 会社内の階段。無いのは壁くらいで、明らかに施工が不十分な見た目をしているのだが、踏んでも崩れるどころか揺れもしない。靴の反響は不思議と屋内のままだ。

「だから、何もかも失われたのよ」
「そう」
 階段を後から降りる彼女に振り返った。
「君が壊したのか」と訊ねる。
「わたしが壊した」と彼女は答える。
「なら仕方ないね」と返した。
 2人で階段を降りていく。目的地は勿論無い。降りた後でどこに着くのかも知らず。おそらく、下の階だとは思うのだが。その通りだったところで、何かやりたい気も無いのだが。
 間違いなく、これは放浪だった。


 フロアを超えて、見たことのある景色が続く。事務、総務、営業部、給湯室、休憩室——当然のように、それらはみんな悉く破壊されていて、記憶にある内装とは当然一致していない。けれど、残った面影から、何となしに「それ」だと分かった。

 そこに居たはずの同僚たちの姿が目に浮かぶ。1階に降りると、エントランスの一角に辛うじて残った来客用の椅子があった。受付で要件を伝え、そこで要件を待つための。

 それを指さして、白雪に言う。
「アレ。あれは、ジローの特等席だったんだ」
 彼女の手を引いたまま近づいた。「あいつ的には総務の仕事がヌルいらしくてさ、すぐに済ませるなりサボってあの椅子に寝っ転がってた。来客には白い目で見られるんだけど、あいつ顔が良いばっかりに許されるんだよ」
 へぇ、と興味なさげな顔をして彼女は返事をした。

「悲しいの」

 その声色は、どこか見下すような、馬鹿にしているかのように聞こえる。それに対してこちらは微笑みで返してやる。

「まだその時ではない」
 白雪は繋いでいた手を、両手で引っ張った。
「悲しんだら」
「まだその時ではない」

 返答は変わらない。白雪は足を止め、駄々っ子のように唇を噛み締め、俯いて地面を見た。

「悲しんでよ」
「何故」
 引っ張られるままに彼女に近寄り、その顔を覗き込んだ。
「まだその時ではないのに」
「貴方が愛するものの全てを壊した」
 親に悪事を報告し、謝罪する子どものように。「貴方はわたし以外のものを愛しすぎる」
「確かに、俺は大体のものが好きだな」
 手を繋いでいないほうの手を顎に当てた。
「俺が好きなものは、君も好きだと思っていたんだけど」
「貴方が好きなものは、全て愛そうと思っている」
 でも、と続けて。「わたしのことも愛してるの」
「そうとも」
 言うまでに時間は無く。「同じように」

 白雪の顔は無表情だった。笑ったり、悲しんだり出来るのに、このときは感情を露わにしなかった。もしかして、今の無表情が彼女の素顔なのかもしれない。
「夢の中なのだから、泣いたって良いんだぜ」
 白雪はこちらの目をまっすぐ見た。「馬鹿」


 そこで急に目が覚めた。
 目を開くと、記憶通りの現実がそこに広がっていた。見慣れた職場、4階フロアの角のソファに腰掛けている。天井もあれば床もあり、窓もきっちり嵌っていた。
 たまたまそこに居合わせた、1人の青年がニヤニヤしながら近づいてきた。

「そこで居眠りなんて疲れませんか」
「居眠りくらいでは俺は挫けないのさ」
 肩を回す。
「俺よかお前のほうが、椅子午睡常習者だろうが」そう言って大きく伸びをした。

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