【短編小説】春某日

 数日前から風邪に罹患した。
 冬から春への季節の変わり目だったのだが、真夏先取りの気温が不意打ちを仕掛けて、完全に体調を崩した。花粉症も数年ぶりに発症して、滝のような鼻水から喉風邪へとスムーズに移行した。

 かかりつけの病院で診察を受けて、担当医は軽い風邪ですねと微笑んだのだが、肺炎を起こしかけていたので安静にするように言われた。

 とりあえず、インフルエンザやらコロナウイルスだの、タチの悪い感染症ではないことに安堵しつつ、会社には何日か休みを申請した。

 元々身体が強いほうではないので、度々体調を崩しては職場に迷惑を掛けている。申し訳ないと思いつつ、仕事で取り返そうと毎度誓いを立てる。成果のほどはまあまあだが、上司からお叱りを受けてはいないので良いこととする。

 暫く養生した結果、病は峠を越え、近々復帰できるだろうと医者からも言われた。

 彼——東條は遅くなった昼ご飯を済ませ、処方された薬を用法用量を守って飲み、妻に状況を報告して寝床に就いた。
 馬鹿みたいに暑かった日はもう穏やかになっており、桜も安心して花を咲かせる用意をしていることだろう。部屋の影を踏むと床がひんやり冷たかった。
 額に手を当てると、少し熱いようだったので、寝巻きに着替えてサッサとベットに入った。さっきまで妻が掃除をしていたようで、感謝しつつもまだ宙を舞っている埃にくしゃみをする。

 東條は、入りたての布団の冷たさが好きで、このときも伸ばした足の裏が爽やかだった。タオルケットの柔らかさを堪能し、洗剤の匂いを鼻腔いっぱいに吸い込んで、寝転がって見上げる窓の外の景色を眺めた。やはり冬は過ぎたようで、日が長くなっていた。明るいうちから寝ていられる優越感に、布団に隠れて顔を綻ばせた。


 少しうとうとしてきたところで、玄関のチャイムが鳴った。向こうで妻が応対しているのが聞こえた。
 相手は男のようだったが、微かに聞こえてくる声には覚えがある。こっちに来た場合に備えて眠ってしまおうと思ったが、そこまで眠気が追いつかない。寝れるかどうか試しているうちに、東條の部屋の扉がノックされる。

「どうぞ」
 仕方ないので返事をした。
「仁保の奴だろ」
 少し開いた扉から、若い男が顔を出した。次に右手を出して、ひらひらと振ってみせた。
「白桃買ってきたんで食べましょう」

 東條はゆっくりと身体を起こして、男——仁保は東條を手で制して、近くに椅子を持ってきて腰掛ける。その手にはカットされた桃が載った皿があり、薄ピンクの熟した桃には小さなフォークが2本刺してある。

「元気になったみたいで安心しました」
 数日ぶりに見る仁保は相変わらず爽やかであり、サイドテーブルに皿を置くと、おもむろにネクタイを緩めた。
「サンさんが居ないと仕事ばっかりで」
 サン、というのは東條の名前から取ったあだ名だ。仁保は後輩だが東條とも親しくしていた。

「暇を潰す相手が居ないだけだろ」
 東條はフォークを取って、桃を口に放った。
「仲良い奴いないのか」
「俺は皆と仲良しですよ」
 嘘つけ、と東條は目を閉じる。
「お前は頭が良すぎるから敬遠されてんだ」
「それ、先輩はもっと頭が良いっていうことですよね」
 無言で咀嚼する。瑞々しい音がした。
「美味い桃だな」
「わざわざデパ地下まで行ったんですからね」
 そう言って、仁保も桃を口にする。
「美味いっすねコレ」
「でもお前は——」ごくん、と飲み込んで、「そのうちうちの部署を背負ってくんだから——」
「だから」
「皆と仲良くしてたほうが良いよ」
「だから、俺は仲良いですよって」

 東條は仁保の顔を見た。猫を思わせる大きな瞳に、少年のような快活さがある。フォークを持ったまま、布団の上で頬杖をつく。

「瑞々しいなお前」
「そりゃどうも」
 仁保は2個目の桃を取る。
「サンさんも格好いいですよ」
 口に入れる前に、仁保は行儀悪く、桃で東條を指して言う。
「というか、奥さん綺麗すぎませんか」
「手ェ出したら殺すぞ」
「違いますよ。お似合いだなって言ってるの」

 それを受けて、不覚にも東條はちょっと照れる。隠すように桃を口に入れた。しばらく、2人が咀嚼する音が部屋に響く。先に飲み込んだ東條が沈黙を破った。

「仁保だって、ほら——神谷さんとか、若い女の子は居るだろ」
 それを聞いて仁保は小さく唸った後、目を閉じて首を横に傾げた。
「神谷さんね、うん。可愛いとは思いますけどね」
「含みがあるな」
「まぁ——」
 また間を取って、
「アレは何というか。同じ土俵というか、同じ次元に居ないような」
「なんだそれ」
 仁保は顔を上げて東條の目を見る。
「サンさんが休んでからの話ですけど、彼女すごく仕事できるんですよ」
「良いことじゃないか」
「なんだかなぁ」
 仁保は歯切れが悪い。東條は嗜めるように。
「自分より有能な女は嫌いだとか言い出したら、俺怒るよ」
「そんなんでは」

 じゃあ何だ。東條は威圧するというより、心配するような声で言う。仁保はフォークを親指と人差しでくるくると回転させた。

「彼女ね、俺が一緒に仕事すると成果を出すんですよ。俺が仕事を上手くやると、それ以上の成果を出す。俺が仕事でミスしても、それをフォローするレベルで成果を出す。とにかく、俺が同じ職場で、仕事で何らかで関われば、俺以上の成果を出していく」

 東條は頬杖をついたまま小さく唸った。良いことには違いないのだが、仁保も人間である以上、思うところが多少あるということだろう。それを恋愛対象にする云々の問題はさておき。
 とはいえ、東條も「お前も負けるな」くらいの言葉しか浮かばなかったので、再び小さく唸って場を濁す。仁保は東條の顔を見て、今度はフォークで指す。

「あいつバケモンっすよ。いつでも成果出していく」
「お前との相性が良いんじゃない、仕事で」
「まさか。絶対俺のこと嫌いなんですよ。俺が居ると反抗心でやる気が出る」

 東條は明後日のほうを見て、神谷のことを思い出した。若くて元気よし愛想よし、まあそれだけの子ではないのは東條にも分かっているが——仮に腹黒い性格であっても——彼女と話した記憶を遡って、仁保のことを嫌がっていたかどうか——。

「……そうかなぁ」
「そうなんですよ、きっと」
 アメリカンホームドラマのように、仁保は大袈裟に肩をすくめた。
「とにかく、うちは既に群雄割拠ですよ。早く帰って来ないと居場所無くなっちゃいます」
 東條は苦笑いした。
「まあ善処するよ」
「俺の味方はサンさんだけなんですからね」



 仁保が帰った後、東條はしばらく眠れなかった。時間的には夕ご飯だったが、そこまで腹も空いていない。かといって何かする訳でもなく、ただ布団に入ったまま天井を見上げていた。その最中に、白桃の食器を取りに来た妻が、ついでに夫の様子を見に来た。

「具合悪いの……」
「いや、風邪は良い。桃も美味しかったし」
 東條は、自分の顔を覗き込んでくる妻の顔を眺めて、若い時のままであるその姿をじっと見た。妻は首を傾げる。

「——俺が寝込んでるうちに、外は変わってるらしいよ」
「それは大変ね」
 妻は穏やかな表情のまま言う。
「早く追いつかないと」

 東條は返事をしなかった。妻から目を逸らして、窓の外に目をやる。とっくに日は落ちて、薄暗い宵闇が辺りを包み始めている。妻が静かにカーテンを閉めた。

「一度寝てからご飯にする……」
「そうする。ありがとう」
 東條はカーテンを見たまま瞬きをした。
「明日も休めないかな」
「どうかしらね」
 妻は東條の視界から外れ、東條は目を閉じた。

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