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【映画の感想】ケイコ目を澄ませて
ケイコ、目を澄ませてを見た後、なぜだか、いつもはすぐにつける壊れかけのBluetoothイヤホンを付ける気が起きなかった。
なんだか街の音を聞きたくなったのだ。
この映画を見ようと思ったのは正直に言えばオードリーの若林が面白いと言っていたからだ。
僕はオードリーが好きだ。というより、オードリーのオールナイトニッポンが好きだ。芸人というのは芸が面白いのではなく人が面白いんだと認識したのはたぶんオードリーのオールナイトニッポンのおかげだと思う。それはもちろん芸も面白いのだけど。
そんなオールナイトニッポンをもう10年は聞いている。
若林はエッセイ本をこれまで3冊書いているが(私が3冊と認識している。もっと書いていたらごめんなさい)、その中でも「社会人大学人見知り学部卒業見込み」が大好きだ。
この本の中に出てくるエピソードはラジオでも語られたものが多くある。
この本は他の人とは違う切り口を知っている人の目を通した社会の質感を教えてくれる気がする。
そんな全幅の信頼を持って面白い人と思っている若林がインスタでこの映画を見るためにこの10年過ごしてきた気がするみたいなことを書いていて、そんなにとんでもない映画なのか、と思い見てみようと思ったのだ。
だが問題があった。「ケイコ、目を澄ませて」を上映している劇場が周りに全然ないのだ。困った。
家の近くにシネコンが3つあるがどこもやっていない。ミニシアターとかのみでやる系のちょっと意識高めの映画なのかもしれない。そう思った。
少し警戒心がでる。そこで一回行くのを諦めかけた。ただそこに救世主?が現れる。別の映画「人生クライマー」の存在である。これは山野井泰史という、世間からするといわゆるイッちゃってる登山家・クライマーのドキュメンタリーである。
ボルダリングが趣味の私としてはかなり興味があった。そしてその映画があることもなんとなく知っていたが、これも近くのシネコンでは上映しておらずなんとなく足が重かった。この二つの映画がなんと同じ映画館で違う時間帯に上映されるのだ。なんかの天啓を全く感じはしなかったが、またとない機会と思いこみいわゆるミニシアターの映画館に向かった。
そこは高速を使って往復3時間、交通費4000円かかる。映画は1本2時間弱、1800円だ。でも2本みれば4時間弱、3600円。バランスはとれそうだ。バランスを取る意味については今日は深く考えないことにする。
ミニシアターに着くと少しそわそわしながら前方正面向かって右側の席に座った。
あっという間の2時間だった。
「人生クライマー」は置いておくとして、「ケイコ、目を澄ませて」には若林というバイアスがかかっている。でもそのバイアスなしにこの映画は素晴らしかったと思う。
正直若林がいうほどの心の芯が震えるような体験まではしなかったが、それは人生のタイミングの問題だったと思う。
主人公のケイコは耳が聞こえない。そんなケイコの職業はボクサーだ。
劇中でも触れられていたがボクサーにとって耳が聞こえないというのはかなりのハンディキャップがあるらしい。セコンドからの指示が聞こえず、自分で判断して試合を運ばないといけなくなる。
この映画はそんな耳の聞こえないケイコがボクシングとボクシングジムの人たち、そして家族、社会との関わり方を描いたものだった。
この映画をみて思ったことは、皆ケイコなんだよな。ということだった。
ケイコは映画の中で弱者として描かれる。それは客観的な事実としての聴覚障害があるためだ。ケイコはたまたま自身の苦手がわかりやすく世間に照らし出される聴覚であったが、これはだれしも同じことが言える。
例えば私は朝起きるのが苦手だ。私の生活習慣の不規則という別要因があるかもしれないという話は置いとくとして、遺伝的には本当に朝が苦手なのかもしれない。そうすれば朝の会議がままならないのは遺伝的に仕方ないことだと思える。
ただし社会はそんなことは思わない。劇中、ケイコとすれ違ったときに接触し、自分のものが落ちたことに声を荒げ続けるサラリーマンが登場する。
彼は我々世間なのだ。もちろんケイコは自身の接触によって物が落ちたことに気が付いていないし、サラリーマンの声も聞こえないから振り返ることもしない。
でもその振り返らないことにサラリーマンはさらに腹を立てる。相手の苦手を知らずにその苦手起因で発生した不満に更に腹を立てているのだ。なんとも不幸な話だ。
我々には人それぞれ苦手がある。それを認識している人も、認識していない人もいるだろう。でも所構わず、あのサラリーマンは声を荒げている。そりゃあなかなか幸せになれないわけだ。
ただ重要なのはそのシーンでケイコは不幸を被っていないことだ。ケイコは苦手のために逆に不幸から逃れているのだ。そう、結局得意、苦手なんてもの、もっと言ってしまえば幸せや不幸せなんてものすらも相対的なものであり、僕らがどんな視点で生きようとするかなんだと改めて感じさせられた。
ケイコは耳が聞こえないから不幸なわけでもなく、耳が聞こえないから人一倍練習するわけでもない。耳が聞こえないからほかの人より強い気持ちがあるわけでもない。ケイコはケイコだからケイコとして頑張るのだ。
この映画ではあえて背景に音楽を流していない場面が多かった気がする。ケイコには聞こえていないケイコの周りの世界を聞かせることで逆にケイコが浮かび上がっていった気がする。だからか映画が終わった後イヤホンをなんとなくつけなかった。
もう少し人生に思い悩み苦しんでいるときにみたら危うくうずくまりそうな強さがケイコにはあった気がする。
良い映画でした。また何年後かに見返したい気分がする。静かな部屋で。