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脳とは何か?

「有」とは何か?崩壊した「無」です。では、「無」とは何か?「現実」です。では、「現実」とは何か?「私」です。他にどんな「現実」がありますか?つまり、「私」とは子なる神キリストに他なりません!十字架に架かったキリストは「物質」、つまり私たちの体を象徴しています。「物質」、例えば、水素原子は「無」が崩壊する「姿」です。私たちの「意識」は「無」です。何故なら、「意識」などというものはこの世のどこにもないので・・・では、何故、私たちは「意識」できるのか?「体(=脳)」が鏡のように、無より無である「意識」を反射しているからだ、とシュタイナーは言っています。別にしゃれではありませんよ(^^;
Ja, die Materialisten sagen: Das Gehirn ist das Werkzeug des Seelenlebens, des Denkens. - Das Umgekehrte ist wahr: Die Löcher im Gehirn, ja sogar dasjenige, was mehr ist als Löcher, oder ich könnte auch sagen, weniger ist als Löcher, was leerer ist als leer, das ist das Werkzeug des Seelenlebens. Und da, wo das Seelenleben nicht ist, wo das Seelenleben fortwährend aufstößt, wo der Raum unseres Schädels mit Gehirnmasse ausgefüllt ist, da wird nichts gedacht, da wird nichts seelisch erlebt. Wir brauchen unser physisches Gehirn nicht zum Seelenleben, sondern wir brauchen es nur, damit wir das Seelenleben einfangen, physisch einfangen. Wenn da nicht das Seelenleben, das in den Löchern des Gehirnes eigentlich lebt, überall aufstoßen würde, so würde es verfliegen; es käme uns nicht zum Bewußtsein. Aber es lebt in den Löchern des Gehirns, die leerer sind als leer.
 So müssen wir uns die Begriffe allmählich korrigieren. Wir nehmen, wenn wir vor dem Spiegel stehen, nicht uns wahr, sondern unser Spiegelbild. Uns können wir vergessen. Wir sehen uns im Spiegel drinnen. So erlebt der Mensch auch nicht sich, indem er durch sein Gehirn dasjenige zusammenhält, was in den Löchern des Gehirnes liegt; er erlebt, wie sich überall sein Seelenleben spiegelt, indem es an die Gehirnmasse anstößt. Es spiegelt sich überall; das erlebt der Mensch. Er erlebt eigentlich sein Spiegelbild. Das aber, was da in die Löcher hereingeschlüpft ist, das ist dasjenige, was dann, wenn der Mensch durch die Pforte des Todes geht, ohne die Widerlage des Gehirnes seiner selbst bewußt wird, weil es dann in entgegengesetzter Weise mit Bewußtsein durchsetzt wird.
 そうですね、唯物論者たちが言うには、脳は魂的生活、思考の道具なのですが、真実はその反対です。つまり、脳の中の空隙や、空隙以上のもの、あるいは、空隙よりも少ないもの、空よりも空であるとさえ言えるかも知れませんが、それが魂的生活の道具なのです。そして、魂的生活がないところ、魂的生活が絶えずぶつかるところ、私たちの頭蓋空間が脳実質で満たされているところでは、何も考えられず、何も魂的に体験されることはありません。私たちは魂的生活のために物質的な脳を必要としているのではなく、ただ魂的生活を閉じ込めるために、物理的に閉じ込めるために、それを必要としているのです。もし、実際には脳の空隙の中で営まれている魂的生活がそのいたるところでぶつかっていなければ、それは飛び散っていたことでしょう。それが私たちの意識に上ることはなかったでしょう。そうではなく、それは空よりも空になっている脳の空隙の中で生きているのです。
 ですから、私たちは概念を徐々に修正していかなければなりません。私たちが鏡の前に立つとき、私たちは自分ではなく、私たちの鏡像を知覚します。私たちは私たちのことを忘れ、鏡の中の私たちを見るのです。同様に、人間は脳の空隙の中に横たわるものを彼の脳を通して把握することによって自分自身を体験するのではありません。つまり、彼は、彼の魂的生活がいたるところで脳実質にぶつかり、映し出されることで、その生活を体験するのです。それはいたるところで映し出され、人間はそれを体験します。彼は実際、鏡に映った自分の姿を体験しているのです。しかし、そこの空隙に滑り込んだものは、人間が死の門を通るとき、脳という障害物なしにそれ自体を意識するようになります。というのも、そのときには、それは意識とは逆の仕方で成就されることになるからです。
(「人が成ることの科学」第6講より、私訳)

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