教室の対話を考える
<例1>
A:昨日の晩ご飯はカレーライスだったよ。今日の給食もカレーだけど、まあいいか。
B:給食とかぶる日ってあるよね。うちは昨日唐揚げだったな。
A:うちは唐揚げがあんまり出てこないんだよね。だって、お姉ちゃんが鶏肉嫌いだから。
B:うち、結構唐揚げの日があるかな。お母さんが、「鶏肉は安いから」って言ってた。
A:それはそうだな。あぁ、上手い唐揚げが食べたいな。
B:〇〇飯店の唐揚げ、めっちゃおいしいよ。大きいし、それになんたって安い!
A:あの店だったら、いつもラーメンを食べるよ。普通のしょうゆ味なんだけど、そこがいい。
B:ラーメンと唐揚げのセットがあったらいいのにね。
<例2>
A:昨日の夜ご飯は唐揚げだったよ。今日の給食も、どっちかっていうと和食だよね。
B:そうだね。でも、和食と洋食の違いって何?唐揚げはどっち?
A:唐揚げは和食だろ?洋食ならフライドチキンって言うし…。どう思う?
B:言い方の問題なの?調理方法が違うんじゃないの?
A:そうか、調理方法か…。でも、油で揚げるのは一緒でしょ。中華だって揚げるし。
B:う~ん調理方法じゃないし、材料でもない…。じゃあ発明した人の違いかな?
A:そんなの誰が発明したかわかんないよ。シンプルにどこの国で生まれたかでいいんじゃない?
B:なるほど~。だったら納得!
<例3>
A:兵十が「お前だったのか」と言ったけど、結局死んじゃうならやっぱりかわいそう。
B:何も知らずに物語が終わった方がいいのかもね。知らないで終わるなら兵十は悲しくないでしょ。ごんも兵十を悲しませずに済むし。
A:そうかな~?だとしても私は嫌だな…。私がごんでも嫌だし、兵十だとしても嫌だ。
B:どういうこと?
A:だって、本当のこと知りたいでしょ。たとえ悲しんだとしても、私だけ知らないままっていうのは嫌だ…。
B:そうか…。最後に心が通じても悲しいし、最後まで知らずに終わってもやっぱり悲しいのかもね。
A:ごんは、兵十に本当のことを伝えたかったのかな?
B:伝えたいけど伝えられない…のかも…。それも悲しい…。私だったら、ちょっと耐えられないな。
例1・2・3のやり取りは、いずれもある一つの話題について言葉を交わしている。その意味で、一見どれもかみ合っているということができる。では、それぞれの例にはどんな違いがあるのだろう。
対話には問いがある
まず、例2にあって例1にないのは、相手への問いかけである。自分にとってわからないことを相手に問いかけ、一緒になって答えを探そうとしている。対話は、未だ答えを知らないもの同士が、言葉を使って手探りでゴールを探っていくコミュニケーションである。その意味で、例1は、言葉のコミュニケーションとしては成立しているが、対話と呼ぶには物足りない。コミュニケーションの成立には両者の間に共通の話題があることが必要だが、それを対話にまで高めようとすると、共通の問いの有無が重要になってくる。例2では「唐揚げは和食か?」が共通の問いであり、例3では「何が悲しいのか?」が共通の問いになっている。
対話は相手の内側に踏み込む
また、例1は、お互いに共通の話題で盛り上がっているようだが、結局は自分のことしか語っていない。自己完結的で、相手がどう答えようと大して気にならないので、むしろ独り言に近い。目の前に他者はいるものの、投げかける言葉の中に他者がいないのである。
それに対して例2は、目の前に他者がいると同時に、言葉の中にも他者がいる。言葉を使って、「あなたはどう考えるのか」「私はこう思うがあなたはどうか」と、他者の中に踏み込んでいるのである。対話は、未知を探る言葉のやり取りであり、他者の中に踏み込んでいく行為でもある。
グループ学習で意見を交流するとき、ノートに書いたことを順番に発表を続けていくような場面がある。すでに書いたものを、Aさんの次はBさん…と順番に発表し、1,2巡したら「はい終わり」というような場面だ。このときには、たとえ目の前に他者がいたとしても、自分の中に他者はいない。伝えたいことは自分の中でだけ完結している。聞いている側も「ちゃんと聞く」ことだけが目標で、そこから話題を深化、発展させようという意識が働くことはあまりない。話す側に他者が不在であるのと同時に、聞く側には問いを持った自己が不在なのである。
対話は自分と対峙する
例3では、物語の悲しみを共通の話題にして、相手に問いを投げかけながら、探索的な対話が行われている。また、相手の中に踏み込んで答えを見つけようとしている。さらに「私は嫌だな…」「だって本当のこと知りたいでしょ」と、自分の心と向き合っている。つまり、物語の悲しみというテーマと対峙し、目の前の他者と対峙し、さらには自分の内面と対峙しているのである。学びは、対象・他者・自己との対話であると言われるが、三つの対話は、対象と他者と自己へ対峙する中で同時に生起している。
例3のような深い対話では、対話の入り口と出口で自己の変容も起きている。対話する前に自分の中にあった悲しみに対する認識は、対話を経て意味が更新され、新しい認識につくりかえられている。認識の更新は、自分の内面を見つめ直し、新たな自分をつくり上げようとする行為である。認識の更新による新しい自己への変容は不可逆的でもある。覚えただけの知識は忘れてしまうが、一度意味を構成し直した自分は、意味を知る前と同じ自分に戻ることはないからである。
このように考えると、おしゃべりと対話は、どちらも共通の話題を話しているとはいえ、実は大きな違いがあることが分かる。
<おしゃべり>
〇自分のことを話すことを目的とした独り言に近い。
〇共通の問いを必要としないので、必ずしも答えを探る必要はないし、合意も新しい発見も目指さない。
〇相手の中に踏み込んでいくような問いかけを必要としない。
〇自分の内側への意識は薄く、後に残らない。
<対話>
〇お互いに未だ答えを知らないもの同士の探索的な言葉のやり取りである。
〇共通の問いを起点に、互いに協力し、真実や合意、新しい発見を手に入れようと努力する。
〇時に相手の中に踏み込んでいきながら、深い理解を目指している。
〇自分の内面と向き合い、自分と対象、自分と他者との関係を編み直していく。
<例4>
T:なぜ巨大な古墳は造られたのでしょう?隣の人と話し合ってください。
A:そりゃ、自分の権力を示すためでしょ?でも、あの形のわけは分からないな。
B:そうだね、鍵穴?人の形?何だろうね?空から見ないとわからないし…。
A:権力を示すこととあの形に何かの関係があるのかな?
B:みんな似たような形ってところも気になるね。同じチームだっていうマークみたい。
子どもは自分の問いに向かって話す
例4の対話は、先生の問いかけから二人のやり取りが開始されている。先生は、「なぜ巨大な古墳が造られたのか」を質問しているが、二人の対話は、「形に対する疑問」を話題として進んでいる。巨大であることよりも「あの形」の秘密が知りたいのである。「権力を誇示するために巨大化した」などということは、二人にとって、「自分たちが、今、話さなければならないこと」ではなかったのである。別の言葉で言えば、「自分たちでなければできない話」ではないということだ。本当に話したいと思える問いが、対話を意味あるものにするのである。
教師は、自分が投げかけた問いを子どもがそのまま受け取って考えていると思いがちだが、教師の問いと子ども自身の中に浮かび上がった問いが同じであるとは限らない。教師の問いをきっかけに生まれた自分の問いに向かって、子どもたちは考え、対話を始める。教師がいくら話題を提示しても、それが自分の問いになっていなければ、意味の薄い言葉が交わされるだけだろう。
授業では、「隣と話して」とか「グループで話し合って」とかと、子どもたちに対話を求める場面がよくある。しかし、子どもたちの中に問いが生まれないまま、とりあえず活発に話すことだけを求めてはいないだろうか。問いを持たないままであっても、その場の雰囲気に合わせて相手と話す術をもっている子もいるだろう。しかしそれは単なるおしゃべりに過ぎない。
〇 対話には問いが大切であり、子どもは自分の問いに向かって対話する。
〇 教師の問いと子どもの問いが同じであるとは限らない。
対話を振り返る
対話とは、お互いの問いを交差させながら、新しい知識を創造したり、互いに納得できる合意点を見つけたりすることで、互いの問いの答えを見つけていく営みであり、同時に、対話を通して互いの関係性を再構築し、「私」についての自己像を再構築していく営みであるとわかる。しかし、実際の授業ではそんなに都合よく対話は行われない。例1~4のような対話が、断片的に折り重なって進んでいくのが現実である。価値あるものが生まれては消えていく。一方が価値ある対話の糸口をつかもうとしても、相手にその自覚がないために、つかみ損ねて逃げていってしまうこともある。話しているときには「大発見!」「なるほど!」と思えたことも、後になって振り返った時には、何でもないことのように思うことも多々ある。だからこそ、対話の後での「振り返り」が大切なのだろう。対話しているときの興奮から少し距離をおき、少し冷めた目で見つめ直してみる。対話そのものに対するメタ認知、つまり、「よい対話とは何か」について、学び手自身が自覚することが肝要なのである。
〇対話中の興奮から少し距離を置き、後で冷めた目で対話を振り返る。
〇「よい対話とは何か」に対するメタ認知を育てる。