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宮澤賢治『やまなし』の真実 ―底を這う者・修羅を生きる者ー

 今回は、『やまなし』の視点はどこにあるのかについて考えてみます。
物語は、「これは、谷川の底を写した、二枚の青い幻灯です。」の一文で始まり、「私の幻灯は、これでおしまいであります。」の一文で終わります。つまり、話者は私であり、全体を私の視点で語る構造となっています。

 冒頭では、視点は幻灯を映写する映写機側にあります。私は映写機の傍に立ち、スクリーンに映し出される物語を語ります。登場しませんが、観客の存在を想起させます。
 しかし、五月と十二月の場面に入ると、視点はすぐに谷川の底へと移動します。川底のカニの兄弟の近くに視点があり、そこから水中の世界が語られます。カニの心の中に入り込んでいるようではありますが、視点は終始カニの外側にあり、カニの行動や心理、水中の情景を描写します。

 話者から見える世界と、カニの親子から見える世界は共通しています。見えるのはあくまで水中の世界だけ。下から水面を見上げることはできますが、水上の世界は見えません。かわせみとやまなしも、視界の外から突然現れる侵入者であり来訪者です。この世界のものではありません。認識外の異界からやってくるのです。
 カニが底に居続け、そして外の世界を知り得ないことは、『やまなし』の解釈においてとても重要ですので覚えておいてください。

 父は、突然現れる何かが、かわせみや、やまなしであることを知っています。知ってはいますが、正体はわかりません。異界から到来する意味を知りえていないのです。現象だけは見えていても、その存在の本質を理解していないといえます。
 なぜなら、これまでお話しした通り、カニの父は俗物だからです。三毒の煩悩から抜け出せません。五戒の戒めを冒していることにも気付きません。そのような俗物の象徴として父は描かれています。しかし、それが普通の人間であることも忘れてはいけません。

 五月と十二月の場面で、カニの親子は終始谷川の底に居続けます。決して外へ出ることはありません。それには、賢治の深層心理が影響しています。『春と修羅』からは、賢治が世界の底から離れられないで苦しんでいることがわかります。

春と修羅(mental sketch modified)

(略)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(略)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
(略)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
(略)

 賢治は、実社会で人の役に立ち、自ら生計を立て、家族を安心させ、文学で自己を表現し、生き生きと暮らしたいと願っていました。しかし、現実はそれを許しませんでした。誰のものでもない、自らの法華経を創り上げ、その世界を実現するという壮大な思想や哲学と、東北の農村の現実は、あまりにも乖離していたのでしょう。

 賢治は自分を修羅だと認識しています。六道輪廻では、修羅は人間界よりも下位に位置します。修羅である自分は、人間界の底を這うようにしか生きられない。賢治はそのように感じていたのではないでしょうか。

 谷川の底が修羅だとすれば、水中の世界は現実の社会です。魚が自由に泳ぎ回り、何かを捕食しながら生き生きと暮らす世界が、水中の世界です。
しかし、水中からは決して水面上を見ることができません。水中が現実の世界であるのに対して、水面上は観念の世界だからです。

 かわせみは異界から侵入し、魚を連れ去りました。殺生によって生きるかわせみと魚は、輪廻を脱することはできません。また、かわせみの輪廻を、目で見て確かめることはできません。かわせみは観念の世界から現れ、観念の世界に帰っていきます。
 一方、やまなしもまた異界からの来訪者です。かわせみと異なり、やまなしは尊いもの、崇高なものとして描かれています。やまなしは仏性の象徴です。仏性もまた、目で見て認識することはできません。仏性もまた観念にほかなりません。

 視点が底から脱することがないのは、賢治が修羅であるゆえです。そして、現実の世界でもがき苦しむ賢治には、水面上を見ることはできないのです。

 最後の一文は、「私の幻灯は、これでおしまいであります。」でした。この一文は、『やまなし』の初期系にはありませんでした。新聞掲載前の推敲で追加されたようです。『やまなし』もまた額縁構造の一種だとすれば、最後の一文で明確な構造を持ったといえます。

では、「私の幻灯」とは、どういう意味なのでしょうか。
1 私が映写している幻灯
2 私が創った幻灯
3 私のことを写した幻灯
4 私の所有している幻灯
 二枚のスライドもまた賢治の心象スケッチだとすれば、どれも当てはまりそうですね。また、格助詞「の」が主格を表すと考えれば、私=幻灯となり、
5 私であるところの幻灯
と考えることもできなくなさそうです。
 賢治は、自分のことを青い照明である(春と修羅)と書いています。自分と幻灯を重ね合わせる意識があったに違いありません。

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