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「振り返り」について考える

なぜ「振り返り」は大切なのか

 「振り返り」が大切だと言われるが、その根拠はどこにあるのだろう。「振り返り」とは、どのような学習活動を指すのだろう。「振り返り」を書かせることで、どんな力が育つのだろう。「振り返り」について改めて考えてみると、分からないことはとても多い。
 昨年、次期教育振興基本計画が閣議決定された。そこには、「2040年以降の社会を見据えた持続可能な社会の創り手の育成」と「日本社会に根差したウェルビーイングの向上」の2つを基本コンセプトとして、2040年の教育で目指すべき姿が描かれている。この内容をもとに、主体者としての側面、能力的な側面、学び手としての側面から、求められている姿についてまとめてみる。
○望ましい社会を実現しようとする責任ある主体者(社会の創り手)
○直面する課題を他者とともに解決し、社会によりよい変革をもたらすことができる力
○望ましい社会の実現と自分の幸福な人生の両立を目指し、生きがいを感じながら成長しようとする個人(よりよい学び手)

どのような学びが求められているのか

 このような資質を育成するために、次の5項目の視点を意識して学びをデザインすることが必要である。
(1)自分の学びと世界とのつながりを自覚し、主体的に課題解決に関与しようとする。
(主体者として自覚すること)
(2)直面する課題を解決するために必要な知識の質を高める。
(意味を自分で構成すること・新しい意味を創出すること)
(3)自分をより成長させるために、自分の学びをデザインする。
(自分の学びを自分でつくること)
(4)望ましい社会を実現するために、自分と他者とのよりよい関係を構築する。
(他者との関係を編み直すこと)
(5)これらを通して自分の姿に気づき、よりよい自分の成長につなげる。
(自分づくりを進めること)
このような学びには、(1)~(5)の内容からわかる通り、認知的スキルだけでなく、非認知的スキルが重要である。現実の世界で直面する問題の解決には、他者の気持ちを共感的に理解し、協力しながら新しい発想を生み出し、困難を乗り越えて粘り強く取り組まねばならないからだ。よりよい学び手とは、認知的スキルと非認知的スキルを効果的に発揮し、問題解決を成し遂げ、成長し続けていく人なのである。
認知的スキル………知識・計算力・思考力・言語力・記憶力など
非認知的スキル……コミュニケーション能力・協調性・共感性・自制心・レジリエンス・忍耐・自発性・創造性・批判的思考・メタ認知など
 全国学テのようなペーパーテストで評価できるのは認知的スキルであり、非認知的スキルはペーパーテストの評価に適さない。全国学テの分析から、「振り返り」を重視する学校とそうでない学校との間に有意な差はみられないという話を聞いたことがある。「振り返り」を考える場合、非認知的スキルの面から考えてみる必要がありそうだ。

「振り返り」と非認知的スキルとのかかわり

 「振り返り」は、「学んだことを整理し、理解を確かにする」「学びのプロセスを見直し、次の課題に向けて学び方を調整する」「新たな問いに気づき、さらに深い学びへとつなげる」「自分の成長を自覚し、次の学びへ意欲を高める」ために有効である。有能な学び手であるために、これららはどれも重要である。しかし、このような「振り返り」の機能は様々な場所で紹介されているため改めての説明は省く。ここでは、認知的スキルと非認知的スキルの視点から、「振り返り」の必要性について考えたい。
 それぞれのスキルを扱う脳のネットワークは異なっているが、全く別々に働くのではなく、相互に補い合う関係にある。論理的な思考力を働かせて問題解決するような場面では、認知的スキルを働かせるネットワーク(執行系ネットワーク)が中心になる。しかし、それを自分の学びの物語として文脈化し、深い理解に至るような場面では、非認知的スキルを司るネットワーク(基本系ネットワーク)が中心となる。学びの物語には、他者との関係や自他の情動が切り離せないだろうから、それらが同じネットワークで結びついていることは理に適っている。
 さらに、同じネットワークがメタ認知を司っている点も重要である。「振り返り」を、メタ認知の中身を言語化したものだととらえるならば、「振り返り」は、誰もが同じになるような、学んだ内容を整理し直したもの、つまり教科書のまとめではない。「振り返り」は、私だけの学びの物語を言語化したものなのである。
 人が物事を記憶する際には、単純に記号を羅列するのではなく、何らかのエピソードと結びつけながら理解し、記憶している。つまり、人はそもそも、物事を文脈に埋め込み、物語として記憶したがるのである。その意味でも、「振り返り」を物語として記述することは重要である。また、自分が学んだ内容や方法の価値に気づき、自分の成長の物語として意味づければ、次の学びの意欲につながる。それもまた、「振り返り」の大切な役割である。
 朝、目が覚めてすぐに、昨日考えていたことに関していいアイデアが浮かぶ場合がある。これは、寝ている間にも基本系ネットワークが働いていて、その間に情報が整理され関係づけられたりすることで、新たな意味が生まれているからだ。寝ている間にも知らず知らずのうちに「振り返り」が行われているとみなすことができる。

「振り返り」の機能

よりよい学び手として成長していくためには、自己の学びを俯瞰し、意味付け、修正し、次の学びに生かすことが必要である。授業や単元の最後の段階で学びを振り返ることは、自分をよりよい学び手として成長させるために重要な役割を果たす。ここで、「振り返り」に記述させたいことを、4つにまとめてみる。

(1)知識の再構築

 学んだ知識を整理して確かな理解につなげる「まとめ」としての役割も重要であるが、「振り返り」には、授業を終えて再度課題に対して自分の意見を再構築する役割もある。改めて考え直してみることで、知識が深化したり、間違いが修正されたり、新しい発想が生まれたりする。「振り返り」の場を、これまでの考えを「まとめる」というよりも、「もう一度つくり直してみる」というとらえた方が、より意味がある。

(2)実践的な方法知の獲得

 子どもたちはメタ認知を使ってメタ認知を使って、学習経験の過程を俯瞰し、何を学んだか、どこで理解が浅かったか、何が上手くいったのかを認識する。そうすることで、自分の学びの方法や理解を客観的に評価し、次の学びに役立てることができる。例えば、何かに失敗した場合、その原因や改善点を考えることで、次回は異なる方法を試すといった、実践的な方法知の獲得につながる。いわゆる自己調整である。

(3)自己と他者の再発見

 子どもは学びの過程で、学習対象の知識を構成していくだけでなく、自分について気づいたり、他者との関係について気づいたりしている。自己や他者への気づきは、授業の過程で生まれては消え、絶えず揺れ動いている。それを、改めて授業の最後に「振り返り」として言語化するのである。学びは、対象・他者・自己との対話的実践による意味と関係の編み直しだといわれるが、学びは、自分づくりの倫理的実践でもあり、他者との関係づくりの社会的実践でもある。

(4)問いの深化・発展と明日の学びへの連続

 「振り返り」によって、学習内容に対する新たな疑問や関心が生まれることがある。新たに分からないことが生まれるのは歓迎すべきことだ。知の探究に終わりはない。子どもは、自分の問いを見つけることで探究の旅を続け、これまでの学びをさらに深化させたり、新しい世界と出会ったりしていく。また、「振り返り」という言葉は過去の内省を意味しているが、新しい問いや、今後成し遂げたいこと、次に役立てたいことなどの未来に向けての意思もまた、その子の学びの物語の一部である。

どう書かせればいいのか

 さて、ここまで書いてきて、「では実際にどう書かせればよいのか」が気になってくる。毎時間書かせることで、学んだ内容を確かめさせたいと考える人もいるだろう。単元の最初と最後に書かせることで、その変容を読み取りたいと思う人もいる。また、パフォーマンス課題に取り組む途中の段階で、学びを自己調整させたい人もいる。いつ書かせるかについては、教師の意図に応じてとしか言いようがない。ただし、ある程度の文の長さがないと、自分の学びを記述できない。「…が楽しかった」のような感想や、「手を挙げて意見を発表できた」のような学習態度、「〇ページの〇番までできた」のような結果だけを、学びの物語と切り離して書かせたいわけではない。ある程度の量を書かせないと、その子の物語は見えてこない。
 教科による違いも悩ましい。国語や社会科は「振り返り」と相性がいいように思う。社会科では、価値判断を問う課題に取り組むことが多い。「振り返り」の場面で、再度自分自身の価値観に自分で問いかけ直すことは、自分づくりの倫理的実践であるといえる。
 以前に、小学校の算数の授業を見ていて、算数では「振り返り」よりも「見通し」の方が大事だと思ったことがある。見通しを立てずに問題を解こうとする人はいない。行き当たりばったりに数字をあてはめるのは無謀な人の仕事だ。熟達した人は、見方・考え方の蓄えが充実しているので「見通し」が適切なのである。算数では、「振り返り」の段階で改めて解き方を再構築したり、別の解き方を発想したりすることはあまりないだろうから、「振り返り」よりも「見通し」の価値が大きくなる。そこで、自分が立てた「見通し」が適切だったか、他の誰か(別の単元)の見通しがどう役立ったかについて振り返ることが考えられる。本当にそれが有効な「振り返り」なのかどうかは、実践による検証を待つよりほかない。
 音楽の「振り返り」はどうだろう。谷川俊太郎は、言葉は音楽にできるが音楽は言葉にできないというようなことを自身の著書に書いていた。なるほど、その通りなのだろうと思う。その時々に心の中で浮かび上がった音楽を言語に置き換えることはできない。それでも、音楽(あるいは音楽に未だなっていない音)との出会いという個人的な経験を、自分の物語として言葉に表すことはできるように思う。「振り返り」は、どんなことでも言語で記述できるわけではなく、できることとできないことがあり、それは教科の特性によって変わるとしか言いようがないのかもしれない。
 図画工作(美術)や技術家庭科のように、作品が目に見える形で残せるものには、言葉に画像(または動画)を添えて「振り返り」を表現することもできるだろう。このように考えると、理科の実験や観察の結果も画像(または動画)を添えて「振り返り」を詳細にすることができるだろう。
 小学校低学年の「振り返り」もまた悩ましい。内言が未発達な段階では、自分の心に問いかけ自分と対話していくことが困難だ。メタ認知が育っていない低学年の子どもの難しさはそこにある。内言が未発達な子でも、隣の誰かに話しかけることは大好きな子がいる。低学年では外言を使って振り返る方法も考えてみてもいいだろう。
 どのような「振り返り」がよいのかは、教科の特性や発達段階に応じて考えなければならない。学んだ内容の確認だけなら「振り返り」など大して意味もないと思う教科もあるだろうが、「そもそもどのような子どもを育てなければならないのか」にまで立ち返って考えれば、「振り返り」には何かしらの効果があると考えられる。

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