宮澤賢治『やまなし』の真実 ーなぜ幻燈なのかー
これまで、五月のかわせみが輪廻を表し、十二月のやまなしが仏性を表すことを説明してきました。しかし、まだ謎は残されています。最初の一文を見てみましょう。
これは谷川の底を写した二枚の青い幻灯です。
『やまなし』は、この一文で始まります。二枚であることは、これまでの述べてきた通り、五月と十二月の役割を読み解くことで説明できそうですね。では、なぜ幻灯なのでしょうか。その秘密を解く鍵は、詩集『春と修羅』の序にありました。
賢治は、自分を現象に過ぎないと宣言しています。自分が現象であるというのは、仏教の無常観とカントの認識論を融合させたものだろうと思います。実体はなく、目に見えるのは照明の光に過ぎないと言っているのです。あらゆる透明な幽霊の複合体とは、常に生滅し続け、変化し続ける光の現象を複合したものが自分だということです。風景もみんなも明滅するのですから、万物がみな同じように無常であると言っているのです。
交流電燈なのも重要です。交流は、一定の周波数でプラスとマイナスが入れ替わる電流です。これは、賢治自身の激しく揺れ動く感情を表しているのでしょう。また、賢治が解離性障害だったのではないかと推測する人もいて、別人格に入れ替わる感覚を表現しているのかもしれません。
『やまなし』においても、クラムボンは、笑ったり死んだりを繰り返し、激しく揺れ動きます。全体のイメージも明と暗が入れ替わっていきます。五月と十二月もまた、常に繰り返されるものです。
賢治は、決して直流の人ではなかったと思います。有機交流電燈の有機は電燈と言っても生命体であること、因果交流電燈の因果は自分もまた衆縁和合の一部であることを指しています。
さて、賢治は自分のことを電燈の光に過ぎないといっているのですから、『やまなし』の幻灯もまた自分自身であると言えます。大事なことは、幻灯を映し出す幻灯機も、それを映写している映写技師も、そして、スクリーンに映し出されている現象もまた自分自身であると言うことです。
賢治は、自分の詩を心象スケッチと呼びました。情景を描写しつつも、その情景は自分の心象であるということです。情景と心象は混沌として混ざり合い、溶け合っています。時に、その心象風景の中に、もう一人の自分自身も登場します。
『やまなし』もまた同じでしょう。物語の中で、賢治はかわせみや魚の姿をして登場しています。賢治が友人に当てた手紙の一部を紹介します。
もしまた私がさかなで私も食われ私の父も食われ私の母も食われ私の妹も食われているとする。私は人々のうしろから見て「ああ、あの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思わず呑み込んでしまった。私の兄弟のからだはつめたくなってさっき、横たわっていた。今は不思議なエンチームの作用で真暗な処で分解しているだろう。われらの眷属をあげて尊い惜しい命をすててささげたものは人々の一寸のあわれみをも買えない。」私は前にさかなだったことがあって食われたにちがいありません。
明治から大正、昭和初期にかけて、あちこちで幻灯会が開かれました。映画が一般的になる前です。幻灯は貴重な視聴覚教材であり、幻灯機は最先端の視聴覚機器でした。子どもたちの教育に利用されたのです。
賢治の童話に『雪渡り』という作品があります。雪のある日、狐の幻灯会に兄妹の二人が誘われる話です。この幻灯会で二人が見たのは、仏教説話のような戒めを、狐の子どもたちが幻灯から学んでいく姿です。
『やまなし』にも共通点があると考えるのが妥当です。『やまなし』もまた、賢治自身が幻灯の光となり、自分自身も登場させながら、輪廻や仏性など仏の世界の真理を伝えているのです。