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『モチモチの木』を読む ―魂振り・魂鎮めの物語―

 『モチモチの木』は魂振り、魂鎮めの物語です。
 こういうと、なんだかオカルトめいた話だと受け取られそうですね。でも、そんな見方もまた作品を読む楽しみです。
 今回は、『モチモチの木』に新しい視点を当ててみます。まず、あらすじを簡単に紹介しましょう。

あらすじ

 5歳の豆太は年老いたじさまと二人で暮らしている。父は熊に殺された。母が不在の理由は不明である。豆太はとても臆病な子どもで、夜になると一人で雪隠にも行けず、じさまを起こして付いていってもらっているほどだ。
 豆太の家には、彼がモチモチの木と名付けた栃の大木がある。昼間はいいが、夜になると豆太はモチモチの木がお化けに見えて怖くて仕方が無い。
 ある日、じさまは豆太に、「霜月二十日の晩にはモチモチの木に灯がともり、それを見ることができるのは勇気のある子どもだけだ」と告げる。今日はその霜月二十日だ。深夜、じさまは突然の腹痛に襲われる。苦しむじさまを見て、豆太は勇気を奮い立たせ、麓の村まで一人で医者を呼びに行った。家に戻る豆太は、医者に背負われながら、モチモチの木に灯がともるのを見る。
 翌朝、腹痛が治まったじさまは、「お前は山の神様の祭りを見たのだ」と言い、豆太の勇気をたたえた。

成長物語だけど

「モチモチの木に灯がともるのを見るのは、幼児が少年になるための通過儀礼であり、物語は豆太の成長譚である。」という読みは、おおかた間違いないではないでしょう。
 成長譚と読んだとき、腹痛はじさまが豆太に自信を持たせるための計略ではないかとの考えが浮かびます。霜月二十日の日中に、じさまが豆太にモチモチの木の伝承を語り、その日の夜にじさまが腹痛を起こすのは話が出来過ぎています。もしかしたら医者もじさまに協力しているのではないかと疑いたくもなります。
 しかし、そのような読みは、この物語の世界を矮小化し、魅力を半減させてしまいます。そうではなく霜月二十日の晩の特異性に注目してみましょう。

霜月二十日は特別な夜

 医者は博識ぶってモチモチの木の灯りの理屈を豆太に説明します。

「あ、ほんとだ。まるで、灯がついたようだ。だども、あれは、とちの木の後ろにちょうど月が出てきて、えだの間に星が光ってるんだ。そこに雪がふってるから、明かりがついたように見えるんだべ。」

 医者の解説は疑わしいと感じます。この日の夜は、月も星も出ていました。それなのに雪が降り始めます。その年初めての雪です。栃の木の枝の後ろに月が出ているのに、枝の間から星が見える。その星の光に雪が重なり、枝に灯がともるように豆太には見えました。通常ならあり得ない現象です。陰暦二十日の月は明るい。月明かりで同方向の星は見えないでしょう。まして、かすかな星の明かりに雪が重なって、その雪が灯りに見えるほどに光るなど考えられません。
 霜月二十日の晩は、現実には起こり得ないことが起きる、特別な夜なのです。山の神様が祭りをする晩なのですから、特異なことが起きなければなりません。

祖先の霊を呼び起こす

 霜月二十日の晩は冬至の晩を意味しています。冬至の晩は、祖先の霊を呼び起こす日にふさわしい。モチモチの木に灯がともるのは、豆太にとって魂振りの儀礼なのです。
 呼び起こすのは熊に殺された父親の霊です。熊は山の神に他なりなりません。山の神に命を捧げた父親の霊を、豆太は冬至の晩に呼び起こしたのです。その霊を自分の体内に取り込み付着させるのは、魂鎮めです。じさまが言う山の神様の祭りとは、魂振りと魂鎮めの儀礼なのです。
 豆太は父親の霊を体に取り込み、この山で生きる力を得ました。それを媒介したモチモチの木は、霊の依代だと言えます。
 
 いかがでしょうか。ぶっ飛びすぎだと言われそうですね。でも、そんな風に読んでみるのも楽しいですね。
 もちろん、実際の授業で使える解釈ではありません。偶然が重なる美しい晩に、巨木の持つ不思議な力が発揮され、おくびょう豆太の中で眠っていた勇気に灯をともした。そう考えても、この物語は十分に楽しく授業できるような気がします。

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