宮澤賢治『土神と狐』を読み解く ー 土神の涙と狐のうすら笑いの意味を考える ー
狐の悲しみを知って泣き崩れる土神と、うすら笑いを浮かべたような死に顔を見せる狐。二人に注ぐ賢治のまなざしは、心弱き者への愛にあふれています。対照的でありながら共に修羅を生きる土神と狐は、賢治自身の二面性が投影されています。
土神も狐も美しい樺の木に恋をしていました。二人の恋心に、樺の木を含めた三人ともが気付いています。分かりやすい三角関係ですね。ただ、樺の木は狐の方が好きだったので、土神にとっては一方的な片思いでした。土神と狐の設定を比較します。
<土神>
「ぐちゃぐちゃの谷地の中に住んでいる」
「ごく乱暴で髪もぼろぼろの木綿糸の束のよう眼も赤くきものだってまるでわかめに似、いつもはだしで爪も黒く長い」
<狐>
「野原の南の方からやって来る」
「大へんに上品な風で滅多に人を怒らせたり気にさわるようなことをしなかった」
二人の人物像は対照的です。狐は詩集を抱え、宇宙などの科学に精通し、会話も知的でおしゃれです。粗野でぶっきら棒な土神とは正反対です。樺の木が狐を選ぶのは自然でしょう。しかし、賢治は、二人を比較して次のように書いています。
「ただもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で狐は少し不正直だったかも知れません。」
両者を善悪の価値基準で判定し、正義において裁断するようなことはしていません。誠実さの価値基準で評価した場合には、狐の方が少し不正直だという評価にとどめています。どちらにも共感し、同情を寄せているのです。ただし、どちらかと言えば、より土神の方に同情していると言えます。
土神の容貌や嫉妬の怒りに狂う姿は、提婆達多そのものです。提婆達多をモデルにしたことからも、土神に心を寄せていることがわかりますね。
両者とも修羅を生きる者たちです。狐は、星を見てみたいという樺の木の言葉に、「見せてあげましょう。僕実は望遠鏡を独乙のツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから来たらすぐ見せてあげましょう。」と、思わず口に出してしまいます。そういってしまった後に、次のように考えます。
「ああ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってしまった。ああ僕はほんとうにだめなやつだ。けれども決して悪い気で云ったんじゃない。よろこばせようと思って云ったんだ。あとですっかり本当のことを云ってしまおう」
狐は、虚栄心から逃れられず、嘘をつく自分に嫌悪します。その場では、正直に言うべきだと反省しますが、結局は言い出すことができません。嘘を重ねることでしか自己を保てないのです。
一方、土神は、狐への嫉妬に怒り狂います。樺の木が、うっかり狐との会話を土神に話してしまうと、土神の怒りは噴出します。
「狐なんぞに神が物を教わるとは一体何たることだ。えい。」
樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれました。土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこらをあるきまわりました。その影はまっ黒に草に落ち草も恐れて顫えたのです。
「狐の如きは実に世の害悪だ。ただ一言もまことはなく卑怯で臆病でそれに非常に妬み深いのだ。うぬ、畜生の分際として。」
いったん嫉妬の炎が燃え上がると、自分でもどうすることもできなくなり、コントロールを失います。恋する樺の木が怯えていても、それを察する余裕はありません。賢治もまた、青年時代には誰彼となく怒りをぶつけていました。彼自身も自分の怒りを抑制できなかったのです。
そんな土神も、季節が変わっていくと、心が安らいできます。そして、こんなことを樺の木に話します。
「わしはいまなら誰のためにでも命をやる。みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。」
決して樺の木の前だから言った言葉ではないでしょう。土神は正直で、言葉を飾るようなことはできません。土神は、自分の仏性に気づき始めているのだと言えます。
しかし、狐の赤革の靴がキラッと光るのを見ると、抑えていたもの、隠れていたものが一気に溢れ出してしまいます。抑制を失った土神は、狐を殺すことでしか自分を止めることができませんでした。それが土神の修羅であり、修羅に生きる者の宿命だからでしょう。
狐もまた、殺されそうになる刹那の場面で、自分の修羅を露にします。土神に追われながら、狐は、
「もうおしまいだ、もうおしまいだ、望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡」
と考えます。こんな時でさえ、望遠鏡の嘘をごまかすことが頭に浮かぶのです。狐にとって自分の命を守ることは、偽ることです。狐もまた、決して逃れられない修羅を生きています。
土神は、狐の家の中を見て、狐の言葉がすべて虚飾であったことを一瞬で悟ると、大声で泣きます。狐もまた、自分と同じ弱き者であり、業に苦しむ者でした。土神は我に返り泣きわめきます。土神の涙は、彼が自分の仏性に気づき始めていたことを表しています。修羅に苦しむ者もまた救われるべきであると、賢治は考えていたのでしょう。
物語の最後の一文は、謎を秘めています。
「その泪は雨のように狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったようになって死んで居たのです。」
狐のうすら笑いは何を表しているのでしょう。うすら笑いには、困惑したときに浮かべる苦笑い、相手を侮蔑しているときに見せるつくり笑いの2つの意味があります。最初に述べたように、賢治は、土神にも狐にも共感し、同情しています。賢治にとっては、どちらも愛すべき弱者であり、自身をも重ね合わせていることを考えると、侮蔑の笑いではないでしょう。
では、困惑の意味をどう考えればいいのでしょう。
狐は、自らの嘘に苦しみ正直に生きたいと思いながら、他者に命を奪われます。あまりにも理不尽な死です。土神は、自らの仏性に気づきながら、結局は嫉妬の炎で他者を焼き殺します。これもまた理不尽な運命です。両者の理不尽さは、逃れられない宿命だったのでしょうか。賢治がどう考えていたのかはわかりません。もしかしたら、賢治自身も困惑していたのかもしれませんね。
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