『パンデミックの倫理学』を読んで振り返る2020年からのこと
テレビをつけたら、小池さんが都知事選に出る出ないを取り上げてた。その一コマで「コロナ禍の最中、『三密』などキャッチーな言葉を連発していた小池さん」などと紹介されてた。キャッチー?キャッチ―とはさすがに?
コロナウイルスは、日曜日のワイドショーではすでにニュースダネとしては消費尽くされた後らしい。
嗚呼。
コロナ禍と呼ばれた時期、近くにいる人のさまざまなコロナへの対峙の仕方をつぶさに見て、世間との距離を置きたくなったことを改めて思い出した。
いろいろな人が自分や自分の大切に思う人の安全を脅かされて、十人十色の立場から自分が正しいと主張するようになっていた。言葉では、あからさまな主張はしないけれど、態度や行動でその考えが理解できることもある。先日も医療者からコロナの時に疎遠になった友人がいる話は、あるあるだと聞いた。
個人がそれぞれの事情をかかえ、正解など言えないことだけに、ちょっと引いてしまったのが本当のところ。それぞれに良い悪いのジャッジをしたわけでもない。けれど、もやもやが深くなり疲れてしまったのが本音だった。これは、個人的な気持ち。
コロナウイルスは無くなったわけでもなく、感染力が低くなったわけでもないので、これからも医療機関や高齢者、障がい者などの施設では、クラスターに気を張って対応し続けていくことなので、疲れたなどと言うのも申し訳ないとは思ってる。
ずっと歯切れの悪い気持ちを感じていたところにおちさんの記事に触れた。気になって取り寄せた『パンデミックの倫理学』が届いたので読んでみた。
おちさんの記事は2022年の9月30日。
今は、2024年。もうwith corona?
コロナ禍と呼ばれた期間を振り返るには良い時期かもしれない。倫理学を通じてもやもやが少しは晴れるのだろうか。
朝日新聞の石川論説委員が紹介してるので抜粋するとこんな本。
この本が出版されたのが2021年1月、その当時読んだとしても納得できたような気がする。ある程度の答え合わせがすんでるいま読んだのでさらに腑に落ちることが多かった。もやもやも少し晴れた。
当時、毎日死亡者数に着目してニュースを見てたのを思い出す。それが、救命数最大化の原則にハマる。さらに公平性、透明性が担保されていたか、そのことをどのように捉えるかが問題の論点。
個に焦点を当てると、一人ひとり個別の事情があり、その生命がかかっている側面もあるので、正解はなくなる。全ての人を納得させることなんてできない。あくまでも倫理学・現代哲学の立場からの分析とされてるので安心して読める。
身近に亡くなった人がいるばかりか、死に際にも会えなかった人たちのことを思えば語り難い話でもあるが、そこは、少し脇において考えてみる。
アメリカでは、トランプ政権になりCDCが予算削減の憂き目にあったところでのCOVID-19の感染拡大。対応の遅れがあったと聞く。(人類と感染症の歴史から)ブラジルの大統領は「ただの風邪」発言をしたり、スウェーデンでは集団免疫獲得に舵を切ったりと国によってその対応はまちまちだった。
日本では、2020年2月、横浜に係留された豪華クルーズ船の船内で感染拡大が起こっていることを報道されたのが始まり。そこから、メディアは、連日コロナ一色になった。感染源の追求、日本での水際対策、海外のロックダウンの状況、集団免疫の獲得、手洗い、アルコール消毒、マスクの着用などの対策、三密避けろのかけ声、ワクチンの開発競争、言葉を持たないコロナウイルスとともに世界中をコロナウイルスにまつわる言葉が席巻した。
当時の過酷な医療従事者の方々の実態が頻繁に報道されていたこと、エッセンシャルワーカーなる言葉が定着し広まったことについても政治的な意味を含めて本書を読んで朧げながら理解した。
医療従事者は不測の事態に全く足りていない社会資源であり、最優先してワクチン接種を受けたり、不足するアルコールや防護服、マスクを供給されなければ負け戦になる。当たり前のようだが、第一に優先される。そして、職業的なミッションとはいえ、行うのは人。一般人の温かい応援の眼差しや言葉かけがなければ心は折れていく。同僚だった看護師もミーシャの歌に心を動かされていたのを思い出す。最前線で働く医療者に伴走したい気持ちだったのだろう。
罹患したら救命率が下がる要因になる高齢者や基礎疾患持ちの人を優先したり、その方たちをケアする介護士などのエッセンシャルワーカーを優先することの合意形成を図るには、マスコミが映像や写真、それに付随する論説を流すことが有効だろう。ヒットすれば、人の口やSNSでまたたくまに広がる。これも重要なことだろう。社会の合意形成のあり方は、変化し続けている。
「パンデミック下の医療資源の分配」の章はトリアージについて書かれていた。誰に人工呼吸器を優先するか?また、他の重症者を救うために人工呼吸器を外すべきか?などの問いが立てられ、戦場と化した現場でではなく、事前に緻密に考え、例外の可能性をきちんと検討して事に臨むことの大切さが語られている。
ワクチンの分配の問題は、国内の分配のみならず、富める国の在り方や、貧しい国々への分配についてもきちんと言及されていて安心した。コロナ禍の最中では、終息したあとにグリーンゾーンとレッドゾーンに分かれて分断が強まると言った言説に辟易したことがあったのを思いだした。確かに人と人との間には心の溝を作った事例もたくさんあると思うが。
「基本的な権利と自由はどこまで制限されるべきか」の章では、「基本的な権利や自由の制限は抑制的で最小限であるべきだということを、わたしたち一人ひとりが忘れてはならない」と戒められた。
一方で基本的権利と自由の尊重、他方で疫学や経済的な影響の観点から基本的権利と自由を制約するという、両者のバランスをどのように取るのかという極めて難しい判断かあった。各国では、政策責任者の判断が大分違っていたように報道されている。もちろん、そこには各国の国民の意志も反映されていなければならない。だからこそ、粘り強く自分の頭でも考えろということを、忘れてはならないのだ。
確かにその通り。
自由の制限についての5つの基準が示されている。それぞれ納得がいくもの。そして、効果的なパンデミック対策は、国民の理解と政府への信頼によるものである、と論じられる。政府や自治体が説明責任を果たすことへの覚悟による信頼性と、対策が科学的かつ公明正大に立案され実施されるという透明性の重要性が強調される。
まさに、その通りと思う。コロナを経て、国民の政府への信頼が深まったのかどうかがその答えだろう。
SNSは発達し、個人が自分の意見をある意味、自由に発信できるようになったことは良いことに違いないが、情報の渦で正しいことがつかみにくくなったことも事実。真偽がわかっていない情報が一人歩きし、警戒心が恐怖心に変われば恐ろしい事態が起こることも予測される。必ずや、いわれもなく傷つけられる人も出てくる。パンデミックに限らず匿名性
の隠れ蓑を着て人を叩く現代の病理にも繋がっている。
「恐怖感ではなく警戒感、偏見ではなく同情、無知ではなく科学的知見によって感染症対策を構想を実施していかなければならない」
先日、ハンセン病資料館訪れたときの気持ちが蘇ってきた。
日本の感染症予防法の前文においては「我が国においては、過去にハンセン病、後天的免疫不全症候群等の感染症の患者に対するいわれのない差別や偏見が存在した事実を思う受け止め、これを教訓として今後に活かすことが必要である」と謳われている。
恐怖感がたくさんの怪物を生んできたのは歴史が証明してる。もう沢山だわ。
もやもやの正体は、社会に得体のしれない恐怖感が蔓延した時の人の心の見えなさだったたように思う。信頼できるのは家族くらい親しい人。けれども、意見の相違があれば、そこに溝ができた例も見聞きした。リアルには一つずつ対処してきたけれど、心は疲弊し人から距離を置きたくなったのだとしみじみ感じた。
個人の覚書なので、取り留めが無くなってしまったが、渦の中に居たのだから仕方がない。渦から顔を出したら、社会は静かに変質していた。
生きやすいのか、生きにくいのかも人それぞれ。ウイルス同様に人類も生存戦略をどこかで働かせてる。
う〜ん。
毎日を踏みしめ、噛み締め、味わって生きるしかないか!なんて。