【小説】「渋谷、動乱」第1話
――2021年7月31日。午前11時14分。
鏡のように磨き上げられた琥珀色の木目の床に、中町康太の襟足の髪がパラパラと落ちていく。康太の後ろでやや中腰になり、細身の鋏を自分の手先として操る藤堂凌太朗の手は、片時も休まることなく、リズムよく、自分に与えられたカットの時間の一秒一秒を、文字通り切り刻んでいた。店内に流れる、しっとりとしたクラシックの音量は控えめで、鋏が髪を切る「サクッサクッ」という音はもちろん、耳をすませば、櫛が髪を梳く音さえ聞こえそうなくらい、店内は静寂に満たされていた。
茶席にでも列席しているような静けさは、かつて「カリスマ」と言う称号を恣にした伝説の美容師、桐生征嗣が経営する店で、3年間の修行を経て、独立して店を構えようと思った時、藤堂がお客様に心から満足してもらうためには何が必要なのかを考え抜いた末、子どもの頃の経験から導き出したコンセプトの1つだった。
藤堂は、子どもの頃からとにかく耳が良かった。聴力検査の数値には表れないが、藤堂の耳は例えば、コンクリート造りの建物の中にいても、屋外で交わされる何気ない会話や木の葉が擦れ合う音、さらには昆虫の羽音まで、一心に集中すれば、ありとあらゆる物音を聞き取ることが出来た。国語の授業で、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」や「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句に出会い、もしかしたら芭蕉もまた、自分と同じような聴覚の持ち主だったのではないかと思い込んでしまったのも、無理はなかった。
その後の藤堂が、芭蕉のような俳人を目指すのではなく、紆余曲折を経て、美容師を目指すに至るには、高校時代の恩師との出会いや元カレの清水優香との衝突などが関わってくるのだが、この物語の本筋には関係がないため、割愛する。
長方形の大きな鏡の前で瞼を閉じ、眠っているように見える康太は、何を隠そう、藤堂のコンセプトに惹かれ、店を訪れた1人だった。ここは静かであると同時に、美容師と客の間で、一切無駄な会話が交わされることのない空間でもあった。康太には生まれつき吃音があり、なおかつ、慣れない相手との1対1での会話に難があるため、母親の美知子が付き添わなくなった中学生以降、理容室の利用を避けるようになった。ではその間、どうしていたのかと言うと、父親に頼んで買ってもらったバリカンで、不器用にも、自ら自分の頭を刈り上げるしかなかった。康太は、野球部に入っていたわけでもなかった。嘘のような話だが、ただ散髪中の会話が嫌なために、そうせざるを得なかったのだった。康太にとって吃音は、生活のありとあらゆることにおける「躓きの石」のようなものだった。
高校に入ると、さすがの康太も異性の目を気にするようになり、次第に髪を伸ばし始めた。しかし、伸ばしたままにしておくわけにもいかず、スマートフォンでYouTubeなどを見て、見よう見まねでセルフカットの仕方を勉強したこともあったが、元から手先が不器用なこともあり、一度として満足に髪を切れたことはなかった。康太は、鏡の中のアンバランスな自分の髪形を見るたび、何度も情けなくなった。同級生の女の子たちが全く振り向いてくれないのも、髪型のせいに違いないと思った。そんな康太に救世主が現れる。テレビで藤堂の美容院が取り上げられているのを見た時、康太はこれだと、声を上げて文字通り立ち上がった。
高校卒業後に、専門学校に通うために上京することを決めたのは、将棋部の先輩の屋代朝陽の影響で、デザインを学ぶためではあったが、それと同じくらい、藤堂の店を訪ねてみたい気持ちがあったことも事実だった。岩手からの上京後、2か月後の予約をようやく取りつけ、今日やっと、その念願が叶ったのだった。
藤堂は鋏を動かしつつも、鏡に映る康太の表情や呼吸、からだのこわばりなどにも気を配りながら、丁寧にカットを進めていた。康太がじっと瞼を閉じているのは、何か話しかけられることが嫌で、自分の中に閉じ籠ろうとしているのではなく、この空間の心地が良いため、自分にからだを預けるように、リラックスしているからだろうと感じていた。事実、そうだった。
康太の隣の席で、カラーリングを終えた谷沢実里が会計を済ませ、ありがとうございました、またお願いします、と言って店を後にした。康太のカットも、間もなく終わろうとしていた。康太は自分の頭の様子が気になり、そろそろかなと、ゆっくり瞼を開いた。暗闇から白い光が差し込む現実に舞い戻った康太の目は、一瞬、鏡の中の藤堂の目とかち合った。康太の視線に気付いた藤堂は、自然に目を細め、小さく頷いて見せた。康太の視線が自分のヘアスタイルへと移る。藤堂が康太の口元に目をやると、やわらかな笑みがこぼれているのが分かった。康太はその時、胸の奥からじんわりと、込み上げてくるものを感じていた。なんとお礼を言ったらいいのだろうと、早くも感極まっていた。だがそれは、康太にとって決して良いこととは言えなかった。何故なら、その状態では間違いなく、上手く言葉が出てくるはずはなかった。
鋏と櫛を台の上に置き、指先で康太の前髪の毛先を整えていた時、藤堂は康太が鼻をすする音をはっきりと聞いた。すぐにそれが、感動によるものであることも分かった。面と向かって理由を聞いたことはないが、これまでにも康太のように感動し、涙を流す客は何人もいた。藤堂は、僕は特別なことは何もしていませんと、取材にやって来るライターや記者にいつも謙遜していたが、内心では、そこまで感動してくれることに、自分の仕事に対するやりがいと誇りを感じてもいた。自分が始めたこと、今までやってきたことは間違いではないと、お客さんに言外に認めてもらっているようでもあった。
――異変は、直後に訪れた。
藤堂の耳がまず、それを捉えた。遅れること、コンマ3秒。藤堂の意識がそれに気付く。藤堂は初め、店の水洗トイレの水が流れた音だと思った。だがその時、トイレを使っているスタッフや客はおらず、藤堂は改めて何の音かといぶかしみ、店内を見渡した。藤堂の様子が先ほどとは違うことに、康太が気付く。康太は、どうかしたんですか、と聞こうと思ったが、案の定、喉がつっかえ、言葉にならない。「ど」が「d」にしかならない。康太の代わりのように、スタッフの木村雫が藤堂に声を掛けた。
「藤堂さん、どうかしましたか?」
木村の声に藤堂が反応する。藤堂は気のせいかと思い、――いや、なんでも、と口にしようとした瞬間、藤堂の耳はその音をはっきりと捉え、認識した。飛行機の騒音や雷でもなく、まるで、地中深くに眠る大きな獣の咆哮にも思える、長く尾を引くような重低音。――いわゆる、地鳴りだった。
だが藤堂は、からだに全く揺れを感じなかった。どうやら、地震の類いではないようだった。だが、間違いなく何かが起きている。この時点で藤堂はただ1人、そう直感した。
つづく
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