プロフェッショナリズム:カラマーゾフの兄弟を読んで
読んだ作品
作品名:カラマーゾフの兄弟 米川正夫 訳
著者 :ドストエフスキー
いま、カラマーゾフの兄弟を呼んでいます。まだ途中ですが、印象に残ったシーンの感想を書いていきます。
・信仰のうすい貴婦人
今回、取り上げる場面は貴婦人と長老との会話です。
来世の存在を信じられない・幸せとは何かが分からない貴婦人が、長老にどうすればよいか聞きます。
長老は「実行的な愛」を積み重ねることによって、神の存在、霊魂の不滅に確信が持てるようになると答えます。
それに対して貴婦人は以下のように答えます
それに対して、長老はある知り合いの医師が語っていた話を貴婦人に聞かせます。
では、どうしたらよいのでしょうか、と貴婦人は長老に聞きます。
実行的な愛と空想の愛
・「空想の愛」
人類愛、人類全体に対する愛
人類への奉仕
・「実行的な愛」
身近な人々への奉仕
これを、医師のプロフェッショナリズムの観点から振り返ってみる。
患者の福利優先の原則
医師は小さいころから勉強が得意で、親や友達、教師から褒められて生きてきた人が多いのではないか。また、壮絶な受験戦争を勝ち抜いてきた経験から、他人よりもできるようにならないといけないという気持ちが強い傾向がある場合が多いだろう(つまり、他者と比較しがち)。
結果として、医師になってからも、他者からの賞賛や感謝などの見返りを求める行動をとりがちである(受験というシステムは、そういう人が結果的に医師になりやすい構造になっている。これは問題である)。最近はよりその傾向が強くなっている気がする。
小説に登場する貴婦人や上記のような医師のように、他者からの感謝や賞賛を目的に仕事をすることは、医師のプロフェッショナリズムの「患者の福利優先の原則」に反する。
医師は社会から
自分のためではなく、他者のために身を捧げること
つまり、
「実行的な愛」を積み重ねることを求められているのだ
(自分の空想の愛の実現のために、個々の患者に対する実行的な愛を犠牲にしてはならない とも言う)
自分自身にも、’できる’医師になって、同期や同僚、上司から認められたい、患者に感謝されたいという気持ちは多少はある。(空想の愛)
しかし、それを求めて行動しても虚しさしか残らないし、何より、他人は自分のことなんてどうでもよいと思っているので、他者を基準に何かをしようとするのは本当に無意味である。長老も、他者基準で生きていては何物にも到達できないと言っている。
なので、長老が言うように、何の見返りも期待せずに実行的な愛を積み重ねることが最も自己の幸せにつながり、かつ、そうすることが一として社会からの求めに応えることにつながる。
実行的な愛は困難を伴う
例えば、
高圧的な態度の患者の診察
患者や家族からの非常に要求度の高いクレーム・批判
看護師をはじめ他職種からの負のフィードバック(特に研修医の頃)
etc
これまで、何度も医師をやめようと思ったし、専門医になった今でも、仕事を続けるのが辛いと感じる瞬間は多々ある。
この境地には最期まで到達できないと思います。また、キリスト教徒ではないので、神の存在や霊魂の不滅というのは、完全には理解できません。
ただ、我慢して実行の愛を積み重ねることにより、どんな境地に達することができるのかは興味があります。
将来のことや、他人からの評価を気にせずに、
日々、地道に、自分のやれることをやる、それに集中しようと思わせてくれました。