人生のターニングポイントについて語ります
人生が180度ひっくり返る体験だった。
高校1年生の夏休みに3週間のアメリカでのホームスティを体験した。
初めての海外、初めてのアメリカ。
ホストファミリーは、お父さんは無口で優しい人、建築家で会社の中にジムがあるような立派な職場で働いていて、アメフトのコーチもしていた。お母さんは専業主婦で画家、ご飯を作って笑って描いて、お母さんが歩くと蝶々が集まるような魅力的な人。子供は、大学でアメフトをしているお兄さん、同い年と一つ上の姉妹、アメフトと野球をする10歳の弟、そして、大きな犬。
お家にはビリヤードをするプレイルームや絵を描く部屋もあった。お庭は綺麗に整えられ、色とりどりの花が咲き、キッチンの小窓にはハチドリが遊びに来ていた。
とにかく、毎日家族で日が暮れるまで遊んで、食べて、スポーツをして、踊って、お買い物へ行って、楽しいことしかなかった。
歳の近い2人の姉妹とは同じ部屋で、夜中までふざけ合ったりもした。
普段の学校生活では評価されることのなかった、「人が好きでおしゃべりであること、絵を描くことが得意なこと、ダンスが踊れること、足が速いこと、料理が大好きなこと!」この全てが、この夏のホームスティで過大評価された。そう、人生一、褒めちぎられる3週間を過ごした。
それはもう、言葉では言い表せないぐらい1日1日が輝かしく、空気も水もみんなの笑顔も美味しくて、お腹いっぱい胸いっぱいになって帰国した。
そして、帰国した時に成田空港での出来事を私は今でも鮮明に覚えている。
人生のターニングポイントだったと思う。
ホームスティのコーディネーターの年配の男性が、迎えに来た母を呼び止め「娘さんの書いた絵日記を見てください」そう言った。
引率を担当した家庭科の先生は、私の3週間を「水を得た魚」だと表現した。
母もその時のことをふと思い出して今でも話すことがある。母にとっても印象的な出来事だったのだと思う。
私は三姉妹の三女、優秀でスポーツも芸術も何でもできちゃう姉達とは違い、小さい時から平均点な子供だった。いつも目指すは平均点、それ以上は努力もしないし競わない。両親も周りも、和ちゃんは和ちゃんと言い切り、期待をされる事もなく、ノープレッシャーの中、伸び伸びと育った。そんな和ちゃんが、何かとんでもなく輝いたものを持ってアメリカから帰ってきたのだから、両親は驚いたと思う。
3週間毎日食べたものを中心に描いた絵日記は、私がいつかお婆さんになった時に孫に見せる為に書いたものだった。
中学2年生、3年生と最愛のおじいちゃんとおばあちゃんを次々と亡くし、大きな喪失感を味わった。極め付けに、3年間進学したいと願っていた高校にまで振られてしまった。
どん底を救ってくれたのは、書くことだった。
おじいちゃんの書いた文章と、おばあちゃんの書いた家計簿の一言日記。そこには2人のユーモアと深い愛情が溢れていた。こんな人生を送り、私もこういうものを遺したいと思った。
それが、絵日記のはじまりだった。そう、絵日記はアメリカホームスティの前から毎日書いていたもの。ただ、誰にも見られていないだけで書く事は習慣になっていた。それを気づいてもらえるアメリカホームスティというイベントと評価してくれる大人に出会った。この出会いが私の持っていた原石を掘り出してくれた。
人は人に磨かれる。自分には大したことだと思っていなくても、誰かには凄いことであったりもする。
ただ自分が好きだと思うことをひたむきにやり続けなければ、こういう事は起こらない。
アメリカホームスティでホームスティの楽しさを覚えた私は、後に中国、オーストラリア、カナダ、再びアメリカでホームスティをすることになる。この経験は家庭料理を教える料理講師になった時に、大きな強みとなった。
絵日記はその後、縁があり自己出版させてもらい、そのつながりで大学へ進学し、憧れの出版社のアルバイトや夢だったフードコーディネーターの仕事まで引っ張ってきてくれた。
掘り出してくれた人のおかげで今の私がある。
このことをいつか誰かに伝えたいとずっと思っていた。
思いを言葉に。伝えることで変わる。素晴らしいと思う事に出くわしたら、素直な気持ちで素晴らしい!と伝えなくてはならない。
いくつになっても、どんな状況でも、自分の気持ちを伝えることでその人の人生が良くなることを忘れてはいけない。そして、素晴らしいことに目を光らせていると、そのおまけの副産物として、自分にもしあわせが追っかけてくる。