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短編小説「こえる」  創作大賞2024


「こえる」
 
 
 
 五月の終わり、春はもう、とうに過ぎて、日中には曇天の下で初夏の風がふつふつとあった。住宅地から少し抜けた細い道の角、交通量の多い通りに面した所にある黄色い看板を掲げた沖縄料理店の店主と思われる恰幅のいい髭面の男が迷彩柄のアロハシャツと牛乳色の短パンに身を包み、自転車で前を通り過ぎていく俺を吐いたタバコの煙越しに睨んでいた。
 そんな何気ない昼間の風景を夜深くになってようやく眠りに入ろうか、と静かに下ろした瞼の裏側に忽然と現れた明るみの中、ふと思い出した。あの男の目はまだ春の陽気さを引きずったまま薄手のコートを着ていた俺をまず訝しみ、それが二度の瞬きの間に薄く押し広げられると蔑みへと変わった。今になってそんな男の目の変化に気が付いて、乾いた口の中の粘り気が陰湿にへばりついていた。

 
 
 幼少の頃から俺は何をするのも時間がかかった。それは例えば朝起きることから始まり、顔を洗って歯を磨き、着替えて、朝ごはんを食べる、人が生きる上で必要な動作であろう、歩く、聞く、話すといったことまで、あらゆることが常人より遅い。茶碗に入った白米がちょうど半分を切ったあたりで、他の者に目をやると、もうすでに食器を片づけて、布巾で綺麗に汚れを拭き取ったテーブルの上で肘をつきながら談笑を重ねている。物心がつき始めた時にはすでに同級生たちの背中が遥か遠方に連なる山々のように佇んでいた。俺はその壮観さに圧倒され、もみあげ辺りを伝う冷ややかな汗を拭きながら、ただへらへらと自嘲的な笑みを浮かべることしかできなかった。
 当然、勉強や運動も同じように遅れていた。周りの早さに追いつくことばかり考えていた俺は小学三年の冬、心身とも崩壊してその日から学校にすら通えなくなった。両親は俺を様々な病院へ連れていくと、ある時叱るのを止めて、優しさ以外全てを取り除いたような力のない顔面へと変貌した。
 ようやく高校を卒業できたのは二十四歳のときである。
 
 
 
 一度、昼間の場面を思い返してしまうと眠りに向かう意識の寸前にあのアロハシャツの男がふてぶてしく立ちはだかってなかなか離れないので、俺はベッドから降りてテーブルランプの明かりを起こした。雨の降る音が窓の向こうから微かに聞こえると、知らず知らず肌へと纏わりついていた湿っぽさに俺はようやく気付いた。汗で張り付いたTシャツを摘まんで、空気を送ると微かに生温かな臭いがする。それは少なからず予期していた梅雨の気配だった。毎年この時季になると俺はなかなか寝付けない。ただでさえ目の前で起こったことを認識するまで時間のかかる俺が季節の変わり目をすんなりと乗り越えられるはずなどなかった。春から夏へ、季節が移ろいゆく境に縫い付けてある細いつなぎ目が規則正しく流れている時間の所々を乱した。それは平面上にできた僅かな凹凸であり、俺はこの凹凸を感じる度に酷い頭痛や眩暈を起こしていたのだ。
 あのアロハシャツを着た男はそんな煩わしさも感じず、一足早く夏へと踏み入れ、その先からもたつく俺を眺めていたのだろうか。じめじめとした暗がりの部屋でそんなことを考えていると不意に喉の渇きを覚えて、冷蔵庫を開けると水が入っていないことに気付いた。溜息をつきながら、それでも粘りっ気のあるこの喉を潤す程の飲み物をどうしても欲した俺はタバコと財布と、左耳にしていたイヤフォンから流れるandymoriの『投げkissをあげるよ』を途切れさせないために、Bluetoothで繋いだスマホも手に持ち、最後に玄関に置いてあった傘を取って外へ出た。


 
 
 二年前、高校を卒業した頃には精神状態も自分の劣等感に対する諦めが一頻りつき、ある種の楽天的な思考が全身を浸していた。その楽観さは俺を常人みたく大学へと進学し、剰え一人暮らしを経験してみたいという自儘な精神を駆り立て、両親へ懇願するに至らせた。
 今、二十六歳の大学一年である。大学生活と一人暮らしの両立は大方の予想より困難を極めて、一年の間に何度も体調を崩し、その度に帰省しては両親に心配をかけた。
「あなたは自分のペースで生きればいいの。自分のやりたいこと、思ったことを何でもやってみて。将来は考えなくていい。今を生きるのよ。」
 母はそう言った。
「死にたいと思ったら、帰って来ればいい。」
 父はそう言った。
 俺の遅さは時間をむやみに消費するばかりか、親の金さえ浪費している。ふとそんな明瞭とした罪悪感に苛まれて、もう二年続けたこの大学生活に区切りをつけ、実家へ戻ろうかとなどと考えることもあるが、絶望が目に見えている社会人としての自分の姿に結局は怖気づいてしまう。
 
 
 
 雨季のにおいが立ち込めたアパートの階段を降りていると、振動するたびにジャージのズボンがずれ落ちていった。そういえば少し前に紐が抜けて、どうせ部屋でしか履かないからとそのままにしてあったのだ。ポケットに詰め込んだ物の重さによるものだろうと、財布とスマホを取り出したが、ジャージの落ちていく早さが少し落ち着いただけで、依然として下がっていく。仕方なく、俺は財布だけをポケットに戻し、左手に持ったスマホと一緒にウエスト辺りを掴みながら、もう片方の手で傘を差して、雨の降りしきる寝静まった街を歩き出した。夜中の三時半ということもあり、当然のように人影はない。俺は立ち止まって、塞がった両手でなんとかタバコの火を点けた。鬱鬱とした夜の中でも感じるささやかなメンソールが彼女の香りを燻して、颯爽と気管を駆け抜け肺の中に広がれば、一時的にでも雨の籠った匂いを忘れさせてくれる。唇歯で咥えたタバコのフィルターの感触が確かな足取りとなって、気付いた時には自動販売機の前に辿り着いていた。

 
 
「ごめん、よく考えてみたけれど、やっぱり私あなたとは付き合えない。」
 もう五年前のことになるが、俺はある女の子と知り合って恋に落ち、五回目のデートで告白した。彼女はいつも所在のない憤りを心の底に沈めながら、それでいてその鬱憤を吐き出さないようにするためにあまり口を開かない物静かな女の子だった。けれど、俺が告白したとき初めて彼女は涙を浮かべて、俺に対する思いを語り始めた。
「私ね、あなたと歩いているとき、いつも不安になるの。意識しないとお互いの距離が段々離れていくでしょ。そしてあなたはある時ふと、私と距離が開いていることに気付いて少し早歩きになって、私もあなたのペースに合わせようと歩幅を緩める。そんな思いやりが何度も行ったり来たりしていると、かえって私とあなたの間にある距離、つまりは精神的な距離を生んでしまうの。歩調が合わないというのは、私たちの未来がまるで地盤の軟らかい道を歩いていくような、そんな危うさを感じてしまって、私にはとてもあなたとの恋愛を耐えられそうにない。」
 彼女とはたった三か月程の付き合いだったが、友人すらできなかった俺の人生の中でそれは最も輝いていた時間だった。彼女は俺に色々なことを教えてくれた。恋と恋を失うこと、人の本当の心と愛する人の涙。そして、ハイライトメンソールとandymoriの『投げkissをあげるよ』 
 
 
 
 傘を差しながら、自販機の明かりを頼りに財布から小銭を探り、それを硬貨口に入れ、ボタンを押して、ガタンと落ちたコーラを少ししゃがんで取り出し口へと腕を伸ばす。ペッドボトルは奥まった所にあるのか、なかなかうまく取れない。おまけに手は雨で濡れ、視界も悪い上に、口に咥えているタバコの煙が俺の目を襲い、小刻みな頭の揺れと共にじわじわと耳の穴からイヤフォンが後ずさりすると『大丈夫ですよ 心配ないですよ』と歌う声が遠のいていく。屈んでいたために下を向いていた紐のない弛んだズボンのポケットから、スマホが金属質の柔らかい音を立てて落ちた。そこまでしてようやく俺は一本のコーラを手に入れたのだ。だがコーラを買えたのはいいものの、手に持たなければならないものが一つ増えると途端に今まで保たれていた均衡が崩れて、何かを犠牲にしなければ家に辿り着けないという事実が、一歩踏み出したとき外灯の下で露わになった。

 右手に傘の柄、ひび割れた画面のスマホと財布を持ち、左手はペッドボトルと一緒にズボンを掴んでいる。
『手に物を抱えすぎて歩き出せない。』
『もし無理に歩こうとすれば、まずコーラが手から離れて地面を転がり始めるだろう。』
『それならばいっそ傘を畳んでしまって、雨に濡れながら走って帰ろうか。』
『だがしかし、この紐の抜けただぼだぼのジャージのズボンを履いている以上、この雨の中むやみに走るのは危険だ。』
といった具合に頭の中で思考が飛び交い、気付けば傘を持つ手が痺れ始めるくらい、俺はその場に立ち竦んでいた。
 手の痺れを払うためにゆっくりと物を持つ手を入れ替えていると、ふと上方にカーブミラーがあるのに気付いた。外灯の明かりで濡れた地面が黒々と照らされ、その円の中心に透明なビニール傘の中、小さく縮こまった人間の姿があった。まさしく俺自身であったのだが、そう認識する直前、確かにそれをゴミ袋だと見間違えたのだ。いや見間違えなどではない。カーブミラーに映った俺の身体は不自然なほど角が取れていて、丸みを帯び、自分では動いていると思っていたはずが、鏡の中では微動だにしない、完全なゴミ袋だった。
「翌朝やってくるゴミ収集車を、ただひたすら待つ、門前に置かれたゴミ袋。」
 俺はそう頭に浮かんだ言葉を自己嫌悪のためにつっかえさせながら呟いた。声に出し、その自分の声が鎖骨辺りに響くのを感じると、昼間のアロハシャツの男の目の正体がなんとなく分かったような気がして、指先に込めていた力がふっと抜けた。するとたちまちズボンが足の皮膚を撫でるように滞りなく落ちていき、サンダルの上で留まった。雨水が少し溜まった所へ落ちたズボンを俺は闇夜に放り出された己の下半身と共にしばらく見つめ、二度三度と周囲の様子を伺ってから、そのまま小刻みに歩き始めた。
 あまりに無様な歩き方だ。だが、太腿の裏が外気に触れているのが心地よく、歩くたびに汚れるズボンのことなどどうでもよくなっていく奔放さに俺は酔っていた。
 サンダルのアスファルトへ擦れる音が静寂とした住宅地を覆うように一定の間隔で鳴り響いている。その音は死んで間もない自分の屍を俺自身の手で引きづっているような奇妙な罪悪感を形作った。
「俺はゴミ袋などではない。」
「死体などでは、俺は今、ちゃんと生きているんだ。」
と半ば狂人っぽい芝居口調で息を切らしながらそう繰り返し呟いていると、アパートが視界に入った瞬間、予め脚本で決まっていたかのように俺は躓いた。
 
 強烈な痛みが顔面へと飛び込んできた。反応が鈍いのと両手が塞がっていたために受け身は当然取れず、剥き出しの顔面がアスファルトへ打ちつけられた。転んだ衝撃で左耳につけていたイヤフォンが外れ、傘やペッドボトルやスマホやライターの地面に散らばった音が一斉に辺りに響き渡る。うつ伏せになったままでいると額と鼻がしきりに痛みを訴えるので顔面を横に向けると、鼻穴から血がたらたらと流れ始めるのが分かった。
 雨で濡れたアスファルトの凹凸が側頭部と頬に刺さって、自分の心臓の鼓動が全身の痛みとともに地中から聞える。俺はもうすでに死んでしまっているのかもしれない、徐ろにそう思った時、涙が流れた。生まれて初めての涙だった。自分が他人より劣っていると気付いた瞬間も、親の諦めたような目を見た時も、女の子に振られた時も、涙は出なかったのに、今になってようやく愚かな自分の非力さに不甲斐なく閉じ込められた現実の数々が雪崩れ込んできた。嗚咽のあまり仰向けになると、雨に晒され、鼻血が奥へと押し戻され、涙は両の目尻から止めどなく流れた。二十歳を迎えたばかりの頃に自分の無力さを胸の裏へと押し込めて受け入れたとばかり思っていたが、俺は俺自身を諦めていたわけではなかったのだ。
「生きている限り、人は自分自身を諦めることなんてできない。」
 そんな言葉が地面にできた水溜りの上に浮かびあがった。
 
 しばらくの間、俺は地面に倒れたまま雨に晒されていた。鼻血と涙は雨と一緒にどこかへ消え、身体の痛みだけ重たく取り残されている。全身に悪寒が走り、そろそろ起き上がろうと、掌を地面につけると、アスファルトが柔らかく沈んだ。俺は違和感を覚えたまま立ち上がると、今度は視界がぶあんぶあんと波打ち、身体が左右に引っ張られる。光はどこまでも伸びるようにぼやけて、夜の空が頭上すれすれまで下がってきた。
 俺はその光景に酷く困惑したが、その揺れは地震などではなく、立ち眩みに似た性質のものだと直感的に理解できた。せいぜい一瞬のことだろうと揺れに身を任せていたが、いつまで経っても揺れは収まらない。その間、俺の身体は揺さぶられ続けたが、ずっとそうしていると身体がその揺れの振動に慣れ始め、少しずつ自分の意思で歩けるようになった。
 地面に散乱している物めがけて、揺れの中身体が傾く方向を察知しながら、次々に拾い上げていく。サンダルのアスファルトに擦れる音が不規則なリズムで鳴り響き、前に後ろに、斜めに横に、家々は跳ね、電柱は伸縮し、地面に落ちた雨が火花を散らしながら弾けていた。俺はうねったアスファルトに背中を押されると、嬉々とした感情が勢いよく湧き上がった。
「こえろ!」
「こえろ!」
 俺はそう叫ぶと、何もかもが揺れ、くねった夜の道を踏みしめるように歩いて帰った。

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