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「光る君へ」第46回 「刀伊の入寇」 理想の政の地、大宰府にて

はじめに

 旅愁を感じたことはあるでしょうか。観光目的の旅行だと快適さばかりを求めてしまい、そうしたものとは縁遠いかもしれませんね。寧ろ、ふらりと目的もなく出かけた旅行先で見かけた風景が、自分に迫り、物悲しい思いになるかもしれません。古来より、多くの旅人が、こうした旅愁を詠み込んでいます。万葉集の世界は勿論、松尾芭蕉「奥の細道」などは典型的でしょう。これは、人々が旅にそうした旅愁の憂いを求めていることを意味しています。わざわざ、哀しみや憂いを求めるのは何故なのでしょうか。

 旅先でふと訪れる独りになった時間に、身近ではない自然の圧倒的な姿、寺院などの佇まいと自然が織り成す景観を見るとき、ちっぽけな自分を見つめる瞬間となるように思われます。景色を見た感動と自分自身の小ささ…それが旅愁の憂いではないでしょうか。
 謂わば、非日常のなかでふと訪れる、自分自身を見つめることが、旅の醍醐味かもしれません。ですから、旅愁を感じたあと、どこかでスッキリするのでしょう。人は旅愁によって、自分を見つめ直し、現世の錆落としをするのかもしれません。

 「光る君へ」のまひろの大宰府への旅は、これまでの半生、道長への思いに一区切りをつけ、振り切るように始まっています。そこには、これまでの人生への納得と虚しさの両面があるでしょう。物悲しさと好奇心の旅です。二つに折り合いがつくとき、彼女の次が始まるように思われます。
 そこで、今回は、まひろが旅の果て、大宰府で何を見たのか、周明との再会で何と向き合うのかを追っていきましょう。


1.大宰府での再会

 都から…道長から…飛び出し遠方の大宰府までたどり着いたまひろ。遂に鳥籠を出ましたが、前回noteでも触れたように、須磨でのまひろの虚ろさ、不安の入り交じった表情に見られるように、この旅は希望と好奇心に満ちただけの越前への旅とは質を異にしています。あのときは20代後半、まだ何者でもなく、それは何者にもなれるという希望でした。
 しかし、今はある程度の成功を得、自分の限界も見え、どこかで達観し、人生の終わりを見つめてのもの。心機一転とはいえ、やれることは多くなく、旅立ちには諦めが漂います。また、これまでのすべてをかなぐり捨てて、都を離れたまひろ。書くこと以外、何も知らなかった自分、守られていた自分…無力と虚しさは旅愁と共に際立つ面もあったでしょう。それが、須磨での物悲しい表情と思われます。

 ただ、各地に着いたとき、特に大宰府に着いたときの輝くような笑みには、まひろにはまだ新しいもの、周りへの好奇心は尽きないことを窺わせます。自覚はないようですが、彼女は終わってはいないと言えます。まひろは内省的になりすぎて、自分を見失い諦めてしまっているということなのでしょう。ところで物事への興味関心が失せる、新しいものを取り入れる気力が失われる…それこそが老いの始まり…気をつけたいものです(笑)

 周りの目新しいものに目を輝かせ、くるくる見て回るまひろだからこそ、 街中にいた懐かしき人、周明に気づけたのではないでしょうか。偶然が過ぎるような再会ですが、ささやかにまひろの性情が関わっています。とはいえ、二人にとっては予想外、すべての音、時が止まり、見つめ合ってしまいます。かつてのトレンディドラマによくあるレイアウト(苦笑)
 ともかく、思い返されるのは、自らの野心のため、まひろを脅したことです(第24回)。それは、出世してまひろと宋に渡り夫婦になる…自分の居場所を得るにはそれしないと思い込んだ必死の末のこと…さまざまな言葉にならない思いが去来した後…我に返った周明は、その罪の意識から逃げ出します…

 「待って…待って、周明」と呼び止めたまひろは、久しぶりに会った旧友も同様に「息災だったのね」と、笑顔を向けます。割れた陶器を突き付けられ、脅されたまひろですが、その後、国府に現れなくなった周明を気にかけていました。ですから、20年ぶりに消息が知れたことが素直に嬉しく、何をおいても懐かしいという感情が先に立つのです。
 一方の周明は、あの日以来、失恋のショック、後ろめたさ、申し訳なさから、まひろの前から姿を消し、松原客館に引き籠りました。また、第24回のサブタイトル「忘れえぬ人」どおり、彼にとってまひろは「忘れえぬ人」となっていたのでしょう。ふと、思い出しては瑕が疼くこともあったのでしょう。昨日のことのように、あの日を悔やむ彼は、まひろの何事もないような挨拶に、思わず「俺のこと恨んでないのか?」と苦しそうに問います。

 まひろは「もう20年もの年月が流れたのよ」と、年月がすべてを洗い流したと答えます。それでも、周明が過去の罪を引きずるのは「お前の命を奪おうとしたのに」ということです。この台詞からは、あのときの周明の脅しは、かなり追い詰められて半ば自暴自棄になっていたことが窺えます。おそらく自分の謀が見抜かれ、まひろに自分の恋心も否定された周明は、将来を悲観したのでしょう。まひろを殺して、自分も死ぬ…という思いだったかもしれません。本心は傷つけたくなかったはずですが…。
 さらに彼は捨て台詞で、差別的な宋の実態を話し「民に等しく機会を与える国などこの世のどこにもないのだ。つまらぬ夢など持つな」とまひろの夢を挫くことまでしました。後悔の念は尽きないでしょう。

 自分を責めるような周明の言葉に、まひろは「あのころは周明も大変だったのでしょう?苦しかったのでしょう?」と気遣います。もとより何故と思っていましたが、年齢を重ね、そして「物語」を書くことでさまざまな人生を生きたまひろだから心情を察せられるのでしょう。
 まひろの心遣いに周明は自然に「すまなかった」と謝罪をすることが出来ました。そして、改めてまひろから「無事で良かった」と言われ、今度こそほっとした表情になる周明。まひろも微笑で応え、こうして20年越しで二人の間にあったわだかまりは霧散しました。

 もとより憎み合う関係ではありませんから、和解がなれば、積もる話になるのは当たり前。周明は「朱(仁聡)さまは日本との公の商いの約束を取りつけることができぬまま、博多から宋に戻った。俺は朱さまと別れて、対馬に渡ったけど、俺を知る者はもう誰もいなくて、それで大宰府に来て通詞をしていたら宋から腕のよい薬師が来た。眼の病を治す名医だ。俺はその人の業を学びながら再び薬師の仕事を始めたのだ」と大宰府に行き着くまでの経緯と近況を語ります。

 史実どおりの朱仁聡の帰国を機に、故郷の対馬に一度、帰国したというのが興味深いですね。20年前、周明はどうしたかとまひろに聞かれて朱が答えた嘘が「生まれ故郷を見たいと出ていきました」でした。朱は周明の内心に望郷の念があると見て、こうした理由を言ったのかもしれませんね。

 だから、彼は知り人のいない対馬から再び宋へ渡る道を選ばず、故郷に近い大宰府で通詞を務めることにしたと思われます。そして、長年の務めで大宰府にて信用を、そして渡来した宋の名医の知遇も得、彼は再び薬師の道を歩もうとしています。彼は自分の出来ることで地道に生きて、夢も失っていないのです。その生き方に、まひろは「ここには居場所があったのね」と返します。

 かつて、日本人であることが宋人らにバレたとき周明は「俺は今、宋人でもなければ日本人でもない」(第24回)と言いました。これはまひろの同情を買うための謀の台詞でしたが、居場所のない彼の本心でした。少なくとも、まひろはそのように聞き、周明が宋人として生きようとしたことに理解を示しました。周明の悩みを知っていたからこそのまひろの指摘に、彼ははっとなります。
 おそらく周明自身は、ただただ必死に生きてきて、居場所があるか否かを思い返す余裕はなかったのではないでしょうか。まひろに指摘され、ようやくそうかもと思えたのか、周明は微笑します。まひろを裏切ったことを後悔し、孤独に生きてきた彼が、そのまひろによってこの20年を肯定してもらえたことは安らぎとなったでしょう。


 次はまひろの番です。「亡き夫の働いていた大宰府を見てみたいと思っていたの」という来訪理由に、周明がわずかに見せた寂しさにも今なおまひろを思う気持ちがあることが窺えます。また時の流れも感じたでしょう。「光る君へ」においては、その人の初恋が一途で深くなる傾向がありますね。とはいえ、20年、平安貴族の女性が婚姻経験があるのは当然ですし、また恋人でもなかった自分にとやかく言う資格はありません。寂しさは押し隠し「夫を持ったのか」と感慨深げに語るだけです。
 まひろは悪戯っぽく「周明も知ってる人よ。越前の海辺で会った人…覚えてない?」と謎かけのように問います。少し訝しんだ後、「ああ、浜に馬で来た…」と思い出すのですが、周明、このとき(第23回)はまひろが左大臣道長と関係があることを知り、野心に心奪われていましたから、よく挨拶程度の男を覚えていると思います。まあ、まひろ絡みのことは思い出せるということで(笑)

 「随分年上の男だったような気がするが…」と意外そうに「そうなのだけれど、越前から戻って妻になったの」とだけ言います。まあ、宣孝との婚姻の経緯を今さらくだくだとは話せないでしょう。今となっては、不義の子である賢子共々、自分を慈しんでくれたことがすべてです。ですから「でも2年半で私と娘を置いて旅立ってしまったわ」と、当時の失われた悲しみと大変さを仄めかします。周明も察したように頷くだけです。
 湿っぽくならないようまひろは「周明は?妻はいるの?」と聞きますが、「いない」と即答されます。「そう」とだけ答えるまひろに他意はありませんが、周明のほうはまひろが「忘れえぬ人」だったのでしょう。

 さて、「これから政庁に行く」と言う周明は、宣孝が務めていた場所を案内することを申し出てくれます。たどり着いた大宰府の政庁に「越前よりずっとずっと立派ね」と、その桁外れのさまに顔を輝かせます。どこを案内しても興味津々、ご機嫌窺いに博多の津から大宰府に来ている商人らの賑わいにも目を丸くします。異国文化に楽しげなまひろの様子は、20年前の好奇心いっぱいの彼女を思い出されるのでしょう。周明は「今でも宋に行ってみたいか」と問います。

 向こう見ずな昔を恥じたのか、苦笑いし「もう年だもの…そんな勇気も力もないわ」と、くたびれた中年らしい年齢ゆえの分別をします。物言いに自虐が混じるあたりに、好奇心の裏にある人生に対する虚しさが垣間見えますね。周明から「そのような年には見えぬが」と返され、その世辞に笑い合う二人。ただ、周明は世辞半分、本気半分でしょう。年月を経て変わらぬまひろの好奇心に、久しぶりに華やぎ口が軽くなったのでしょう。まひろの心中は負の感情が占めつつありますが、周明を通して変わらぬ面が描写されています。


 そこへ宋の名医恵清が現れ、周明に任せた患者についてのやり取りを宋語でします。周明から「師匠の恵清、大宰権帥の目を治したのも恵清さまだ」と紹介されたまひろは「很榮幸見到您(お目にかかれて光栄です)」と拱手礼で返します。細かいことですが、拱手は男性は左手で右拳を包み、女性は右手で左拳を包むと逆なのですが、まひろは作法どおりです(吉高由里子さんが左利きでたまたまそうなった可能性もありますが、結果オーライ)。
 恵清は「宋語が話せるのか」と驚き、まひろは「少しだけ」と謙虚に応じますが、拱手の演出は、まひろが宋語だけではなく作法や文化への理解があることを窺わせます。周明の「覚えていたのだな」という言葉は、かつて自分が教えた宋語に対してですが、細かい演出は説得力を持たせます。また言葉とは総じて使わなくなると記憶が薄れていくもの。となると、まひろは時折、復習をしていたことに。まひろは学問に対する貪欲さは失われていないと言えるでしょう。


 さて、広々とした空間に出ると、そこでは武者たちが武術訓練をしています。そのなかには、平為賢に支える若武者、双寿丸を見つけます。思わず、声をかけるまひろに「賢子の母上がこんなとこで何してるんだ?」と双寿丸も驚きます。「大宰府を見に来たの」と近所への物見遊山のように言うまひろに「へえー!ただの女じゃないと思っていたけど、すごいな」と呆れたような感心したように返す双寿丸は容赦がない物言い。久方ぶりのざっくばらんな会話は、まひろにとっても嬉しい感覚でしょう。

 双寿丸は「せっかく勇んで来たけど俺はまだ手柄を立てておらんのだ」と武者の本懐が遂げられていない忸怩たる思いを口にしながらも「みんな、達者でいるか?」と聞きます。まひろ一家は、彼にとって家族の暖かさを与えてくれた場所。彼なりに大切なものなのです。ですから、「賢子は太皇太后さまのもとで宮仕えを始めたわ」と聞き「大人になったのだな」と、しばらく見ない妹のような賢子に思いを馳せます。
 まひろに「娘の…好い人だったの」とからかい半分に周明に紹介され、「そんなんじゃない」と抗議する双寿丸。場が和みます。まひろは旅のなかで虚しさに囚われていましたが、懐かしき人との再会で、幾分は癒せたように思われます。


2.理想的な為政者、隆家

 まひろと双寿丸が旧交を温めていると、訓練所に大宰権帥、隆家が「精を出しておるな」と顔を出すと「酒を持ってきたぞ、皆で分けよ」と差し入れをします。訓練所に詰めている武者たちは清聴内では下級の身分です。その彼らのもとへ、実質、大宰府のトップである権帥、しかも中央では公卿であった人物が、気さくに訪れるということ自体、都では見られないでしょう。武者たちも礼節は弁えているものの、特別に緊張しているという様子でもない。隆家はちょくちょく彼らの様子を見に現れるということでしょう。そして、彼らの好きなものであろう酒をちゃんと差し入れるなど下情に通じてもいる。この場面だけで、大宰府における隆家の施政がいかなるものかが垣間見えます。

 例えば、道長は身分で分け隔てをする人間ではありませんが、人の欲深さが見えてしまう「家」に育ったせいか、家中の武士すら信用していませんでしたね(第9回)。易々と胸襟を開けない道長の慎重さと泰然自若として下々のなかに飛び込んでしまえる道隆の明朗さは、好対照ですが、下々の気持ちをつかむ者は一目瞭然です。


 そういう隆家ですから、その場に周明を発見すると、通詞のお前がおらず苦労したと気さくに声をかけ、傍らに女性がいるとみると「周明も隅におけんな」とからかうのです。周明の「そういうおなごではございません」という生真面目な返事も予想のうちでしょう。
 いきなりの権帥のお出ましにいささか緊張気味のまひろは「前の越後守藤原為時が娘まひろにございます」と型通りの挨拶をします。ふと訝しんだ隆家、すぐに「そなたはもしや、太皇太后さまの女房藤式部か?」と聞きます。直接、話す機会のなかったまひろは、意外なことにやや驚きますが、「太閤さまからそなたを丁重にもてなし、旅の安全を図るようお達しがあった」との言葉には、さらに驚きます。

 まひろは「行かないでくれ」と訴え「お前とは…もう、会えぬのか」とすがりつく道長を「…会えたとしても…これで終わりでございます」と振り切って、都を出てきました。大宰府ほどの遠方となれば、旅は命がけ。旅立つとき、まひろの脳裏には、二度と道長に逢えない可能性がよぎったでしょう。旅先で時折、見せる侘しさ、やるせなさ、虚ろさが表情に浮かぶのは、都へ置いてきた自分の想いを遠ざかるほどに感じるといった面もあったでしょう。それでも道長は、不義理をして都を出た身勝手なまひろを、旅の危難から救おうと手を回し守ろうとしてくれる。

 また、前回note記事で触れたように、道長の元を離れる理由「私の役目は終わった」という言葉には、道長の役に立てず、道長への未練にすがる自分を情けなく思う気持ちがあります。見方を変えれば、自身の不甲斐なさへの申し訳なさがあります。ですから、隆家の言う道長のお達しを聞いたまひろが思うのは、感謝と申し訳なさでしょう。その一方で、道長の手を離れ、大宰府まで来たつもりが、今なお道長の庇護にある。鳥籠から出られていない自分を痛感したかもしれませんね。


 呆気に取られるまひろを面白がるように見やった隆家は「俺たちを追いやった「源氏の物語」を書いた女房をもてなせとは…酷なお達しだ(笑)」と、わざと芝居がかった物言いをします。これは、生前の伊周、そして清少納言が語った言葉の受け売りでしょう。長徳の変以降、隆家自身は、既に左大臣道長の御代は決していると判断していましたから、「枕草子」の頒布も延命策でしかなく趨勢を覆すものとしか思っていなかったでしょう。
 寧ろ、伊周より献上された「枕草子」に囚われる一条帝を危惧し、「兄には困ったものでございます。帝のお気弱に突け込んで…」と揶揄し「帝にも前をお向きいただきたいと存じまする」(第30回)と言ったものです。

 過去に囚われない現実主義の隆家ですから、既に趨勢の決まっていたなかで「物語」がどれほどの力を発揮したかは懐疑的でしょう。よしんば「枕草子」を退けたなら、それは彼の願いどおりです。ただ、まひろは当の中関白家の人間に「追いやった」と言われることには、恐縮するしかありません。ききょうから責められたことも、未だまひろの心には瑕として残っているでしょうから、疼いたかもしれませんね。
 逆に隆家は、まひろの神妙さに、彼女が自分たちを追いやるために「物語」を書いたのではないと察したのでしょう。「あははは」と冗談だと快活に笑い飛ばすと「長旅で疲れたであろう、参れ」と執務室へ誘います。


 武者である平為賢も同席する権帥執務室では、宋の茶が立てられます。喫茶文化は唐代に日本に伝わりますが、広まるのは鎌倉初期、臨済宗の開祖、栄西の「喫茶養生記」がきっかけと言われます。ですから、まだこの時分には珍しい。まひろが「これは…何でございますか」と訝しむのは、当時としては一般的な反応ですし、一口飲み、その苦み、カフェイン具合に目を丸くするのも仕方がありません。
 「どうだ?」と聞かれ、未知の味に戸惑うまひろは、せっかく供されたものへ無難な物言いも思いつかず「んん~」と言い淀んでしまいます。当然、この反応は予想通り、まひろ以外の一同は闊達に笑います。まあ、隆家も為賢も、最初は同じ反応をしたのでしょう。周明は「飲み慣れれば美味しく思える」とフォローします。そんなものかと不思議な顔をして周りを窺うと、隆家らは茶を味わい、ぐっと飲み干します。


 味わった隆家は「この茶は目にも良いらしい。俺はこの周明の師恵清に目を治してもらったのだ」と喫茶は治療の一環から始めたと種明かしのように話します。飲み慣れているのも当たり前です。そして「目が再び見えるようになったら違う世が見えてきた」と切り出すと「内裏のような狭い世界で位を争っていた日々を、実にくだらぬことであったと思うようになったのだ。ここには仲間がおる。為賢は武者だが信じるに足る仲間だ」と興味深いことを話し出します。
 隆家の言葉が示唆的であるのは、二つの点です。内裏の価値観は、庶民の価値観とはかけ離れているということです。内裏での権力闘争は、限られた人数の上流貴族たちだけに通じる価値観です。広い世間一般では、意味も価値もなく、直接関係しません。つまり、内裏にいる人間は、権力者であることに胡坐をかき、現場の人を見ず、それを政と言っているに過ぎないというわけです。隆家は特別、道長を批判しているわけではありませんが、実資の「そもそも、左大臣殿に民の顔なぞ見えておられるのか?」(第43回)が思い出されますね。あれほど、「民のための政」を目指していながら、内裏の権力闘争に明け暮れるしかなかった道長の問題点が見えてきます。こうしたことは現代でもよくあるでしょう。「永田町の論理」などという文言は、いかに政治家が内向きで国民を見ていないかの証左と言えますね。


 そして、もう一つは、政において必要なことは、理想論的ではありますが、多くの者たちが、その能力を駆使して協力し合うことです。内裏では上流貴族たちは、自分の欲を叶えるために、他者を出し抜き、足を引っ張り、騙し、罠に嵌めることが茶飯事です。また、しきたりや慣例に囚われ、それが政の足を引っ張ることも珍しくありません。硬直化した政治システムと猜疑心と不信感が、内裏の政を支配しています。道長は、こうした貴族間の問題を払拭することも含めて、専横を避け、陣定を重視する体制を築こうとしましたが、それが結局は新たな権力志向にしかなりませんでした。彼は内裏の狭い理屈を乗り越えるまでには至らなかったと言えるでしょう。

 対して隆家の「為賢は武者だが信じるに足る仲間だ」との言葉は、隆家の政治姿勢を端的に示しています。政にかかわる人間は「敵ではなく仲間」、仲間の協力こそが政の礎だということです。また「武者だが」の言葉は、「貴族ではなくとも」ということ。つまり、政においては、身分ではなく、その人間性と能力であると隆家は看破しているのです。先に見たように、彼が、下々の武者の訓練所まで自ら出向く理由もここにあるのでしょう。能力主義、適材適所は道長も同じですが、広く人材を取るという点では隆家には及びません。もっとも、そこまで破天荒では、左大臣も摂政も務まらなかったでしょうが。


 隆家から信頼篤い為賢は「隆家さまは、この地の力ある者からの賂(まかない:賄賂)もお受け取りにならず、何事も自らの財を用いられる身綺麗なお方で、それもみんながお慕いし、なついておる所以でございます」と、その高潔さを褒めそやします。受領国司が私財を増やすことは一般的でした。越前のように、それは必要悪のシステムになっている面もありますが、多くの国司は私腹を肥やすことに汲々としています。宣孝なら躊躇なかったでしょう。しかも、貿易を一手に引き受ける大宰府は、他の地域と比べ者にならない莫大な利益を生む場所です。

 隆家は、それを一切放棄し、仲間と共に善政を敷くことに力を注ぎ、人望を得ているのです。為賢の褒め言葉に「富などいらぬ。仲間がおれば」と応ずる隆家は、為政者にとっての財産とは富ではなく、人材であるということを確信していますね。上の者が私利私欲に走らず、下々の者を信じ、身分にかかわらず仲間として登用し、下の者たちもそういう主の高潔さを慕い、彼のためならば、協力を惜しまない…政の理想形がそこにはあります。まひろが、隆家の言葉に微笑むのは、自分の理想を垣間見たからではないでしょうか。

 隆家の為政者としての覚醒は、隆家自身は「目が再び見えるようになったら違う世が見えてきた」と開眼と語っています。しかし、長徳の変以降、彼が道長に接近したのは「政で自分の力を試したい」、このことでした。都にいる間、彼自身は自分の言う政は、具体的な像は結んでいなかったでしょう。というのも、結局、中関白家であることを道長側から終始、警戒され続けた彼は、公卿ではあるものの、政の重要な案件を任される機会はなかったからです。
 つまり、ずっと力を持て余していた…それが隆家の境遇だったのです。都の理屈が通らない遠方に来たことで、ようやく隆家は、自分の施政を行えるようになりました。卑しい野心家ではなく、真っ当な政をしたかった隆家は、ようやく場所を得て、それまでため込んでいた力が開花したのでしょう。

 ただ、隆家が「富などいらぬ」と豪語したのは、自身の政治理念によるものだけではなかったようです。隆家は唐突に「太閤さまはご出家あそばしたそうだな。知っておったか?」と問います。仰天するまひろは言葉を失いますが「いえ…旅立つ前はまだ…」と辛うじて答えます。深刻そうな表情の隆家は「お身体もかなり悪いらしい」と続けます。まひろの驚きは呆然へと転じていきます。
 隆家は「いくら栄華を極めても、病には勝てぬ。それが人の宿命だ」と沈鬱です。道長の絶対権勢の御代をずっと見、その政の巧みさも好意的に見てきた隆家だけに、道長が衰え、出家したという話は衝撃があったでしょう。彼の胸に去来したであろう栄光盛衰という無常観…それは、かえって、この大宰府にて、自分のできることを成そうという気持ちに拍車をかけたのではないでしょうか。人の寿命は有限ですから、後悔なきように生きようとした結果が、今の善政に表れているように思われます。

 ただ、まひろの心中は、隆家の思いとは別です。振り切った想い人の病、そして出家に至った心境が気がかりです。遠いこの地では何することもできず、いや、都にいたとて、今の自分にできることはない。その無力から呆然としたままです。


 その夜、隆家は、まひろを歓待するための宴を開きます。自分の傍らにまひろを座らせ、自ら酒を注ぐなど下にも置かぬその態度は、太閤の命だからだけではなく、出自で人の扱いを変えない隆家の人間性もあるのでしょう。彼らの前では、大蔵種材(おおくらのたねき)、藤原助高、藤原友近など武者が、酒を酌み交わし、万葉集に合わせながら陽気に舞を楽しげに踊っています。同じく陽気な隆家は「むくつけき男たちの舞はどうだ?」と笑います。雅な都人には好まれないだろう荒っぽい踊りですが、先の話の感動が胸にあるまひろは「隆家さまは明るく頼もしき仲間に囲まれておられるのですね」と、嬉しげに感心します。こうした反応に我が意を得たりの隆家は「ここは気取られずにいられる場所だ」と応じます。

 「そのように存じます」と言うまひろも、武者たちの楽しそうな様子に目を輝かせます。まひろは、自分の書いたシナリオによる直秀たちの散楽で皆が笑っているのを見て感動したことがありました(第7回)。皆が笑える世の中…散楽の場は、さまざまな意味でまひろの原点です。この宴での身分を越えた一体感は、それを彷彿させるものだったのではないでしょうか。素直な感動が窺えます。


 隆家は、自分の大切にするものを理解できるまひろを気に入ったのでしょう。酒を勧めると「大宰府にいたいだけおれ」と声をかけます。この言葉は、道長の命を超えていますから、まひろは驚きます。すると隆家は「いくら夫がいた場所が見たいからとはいえ、おなごがこんなところまでやって来るとは何か理由(わけ)があるのだろう」と、彼女の気持ちを察します。
 この辺りが、隆家が華も実もある人物だと思えるとことですね。彼は武勇を誇りますが、その一方で繊細さも兼ね備えています。金峰山での伊周への接し方からもそれは窺えますね(第35回)。最初から何かあると察しながらも何も言わず、宴の席の途中で何げなく気遣うところが粋ですよね。ほんと、いい男になりました(妙な親目線←


 すると、藤原助高、藤原友近らが、隆家を舞に誘いにやってきます。逡巡する隆家を無理矢理に手を引いて引っ張っていく二人。何も言わずとも無礼講なのでしょうね。引きずり出される形になった隆家ですが、彼らの仲間に加わること自体は楽しいのでしょう。自らもノリノリで、彼らと共に「むくつけき男たちの舞」を踊り出します。思い出されるのは、第16回で伊周に舞を強要されたときです。彼は香炉峰の雪遊びにも加わらないほど、登華殿サロンの雅やかな遊びを権勢のための空虚なものと思っている節がありました。伊周に威圧され、仕方なく踊る隆家の舞は、当てつけるような騒々しい舞だったものです。
 しかし、今は違います。隆家の荒々しい舞は、武者たちと一体感を増し、宴を酣にしていきます。こうしたところにも隆家が、場所を得たことが窺えます。都ではあり得ない、理想を道長ではなく、大宰府の隆家が体現しているところが興味深いところですね。


 宴も一段落着いた頃、座を抜け出したまひろは、隆家たちとの語らいが楽しかったゆえに余計に憂いも強くなります。溜息を深くつき、月を眺めるのは、出家した病身の道長を思うからでしょう。そんなまひろを追ってきたのは、周明です。まひろが、遠くを見、遠くを思っていることは一目瞭然だったのでしょう。「太閤さまとは誰なのだ?」と、自分が最も気になっていることを単刀直入に聞きます。言い添えられた「身体が悪いと聞いて、お前の顔色が変わった」との言葉に、まひろが「ふ…」と笑ってしまったのは、越前にいた頃の昔を思い出したのでしょう。

 かつて、宣孝からプロポーズを受けたとき(第24回)、「あの宋人と宋に渡ってみたとて、忘れえぬ人からは逃げられまい」と鎌をかけられ、過剰反応してしまったときです。ひた隠しにしてきた道長への想いを宣孝に見抜かれた瞬間です。その際、宣孝が言ったのは、「とぼけても顔に出ておる」「都人は心を顔には出さぬが、お前はいつも出ておる」という、腹芸のできない正直さでした。20年も経って、夫に言われたことを再び言われようとは思わなかったのでしょう。

 「太閤さまは…私が仕えていた太皇太后さまの御父君ですの」と、それでも本心を隠しながら苦笑いすると「昔から思ったことが顔に出てしまって困るわ」と自虐的な言葉を口にします。これに対する周明の「それがお前の面白いところではないか」もまた、そのときの宣孝の言葉「愚かなところが笑えてよい…わしの心も和む」(第24回)を彷彿とさせます。ますます気恥ずかしく、そして亡父を思い出したまひろは「いい歳して…みっともないではないの」と複雑な気持ちから泣きそうな表情になります。

 しかし、周明は「だから若く見えるのだ」と言います。世辞と思ったまひろは笑いますが、周明は本気です。歳を取ると物事の道理が見えたような気がして、何事もこんなものだ、あるいはどうせこういうことだろうと決めつけて、感動しなくなっていきます。心が摩耗し疲れていると言えるでしょう。しかし、まひろは未だに感情が先に出ます。あるいは好奇心に顔を輝かせます。彼女は疲れているかもしれませんが、心の底まで摩耗していない…周明はそれを指摘するのです。

 話題を転じて、周明は、隆家たちを追いやったという「源氏の物語」について聞いてきます。まひろの半生がどんなものだったのか知りたいのでしょう。まひろは、中関白家を追いやったことについては「そういうつもりで書いたものではないわ」ときっぱり返しますが、「でも物語が人を動かすこともあるやもしれない」と自信なさげに答えます。過ぎてしまえば、「物語」が起こした数々の出来事も人の思いも儚いものでしかない…それは現実であったとすら思えなくなっているのでしょう。
 「お前の物語は人を動かしたのか」との周明の質問に、首を捻り、再び、一人月を見つめます。病臥に臥し出家した道長を思うその心は、作家としての自信をすっかり失った重症度が窺えます。「物語」を書き上げた納得と満足も、時を経て、旅を続けるなかで、すっかり遠いものになり、喪失感だけがあると思われます。


 時同じくして、都でその月を眺める道長の目も遠くにあるまひろを思い、彼女が身近にいない喪失感を感じているのでしょう。質は違いますが、月を通して喪失感は響き合っているように思われます。そこへ現れた倫子、「殿のご出家は強くお止めいたしましたけど、今のご様子を拝見いたしますと、これで良かったと思います」と諦めとも本心ともわからない言葉を口にします。彼女が言いたいのは、今後も道長と共にありたいという気持ちだけでしょう。ですから、道長は、彼女のほうへ顔をきちんと向けてから「心配をかけたな」と労います。微笑して首を振る倫子に微笑むと、再び月を見上げます。夫婦の和解も、この侘しさを埋められません。せめて、まひろが、同じく侘しく思っていたら…身勝手とわかっても、道長はそう思うのですね。


3.露わになったまひろの絶望と再生

 周明の案内で大宰府を周り、堪能するまひろ。乙丸が、よねのために舶来の紅を購入、嬉しそうにするのが印象的です。かつて、紅を買う、買わないで大喧嘩をした乙丸とよね(第32回)。よねに紅を買うなと言う乙丸の「私は、こいつが美しくなって、ほかの男の目に留まるのが怖いのです」「こいつは、私だけのこいつでないと嫌なのです」といういじらしい独占欲に、よねのほうがキュンと来てしまったものです。あれから10年以上が経ち、二人の夫婦ぶりもすっかり板についてきたのでしょうね。彼女の希望を叶えてやりたい、そんな気持ちになれたのでしょうね。まひろも視聴者も、そんな乙丸を微笑ましく見守ります。

 楽しい日々が一段落した頃、まひろは大宰府を離れ。松浦に行くことを周明に話します。旧友さわの辞世の歌にあった場所を見たいからです。土地慣れした周明は、松浦に行くための舟が出る船越の津まで送っていくことを申し出ます。こうしてまひろは、女真族の襲来を告げる壱岐島の常覚と入れ替わるように、船越の津へと出立します。「刀伊の入寇」が始まったことも知らないまま…


 道中はそれなりに難所で、土地勘のある周明が近隣から干飯を分けてもらってくれるなどまひろたちの世話をしてくれます。感謝するまひろへ「筑前に来て20年だからな。この辺りのことはよーく分かっている」という周明。過ぎ去った年月に感慨深げになるまひろへ「20年前の左大臣は今の太閤か?」と切り出し「お前の想い人か?」と率直に聞きます。思えば、周明は、まひろを謀にかける決心をしたときから、それを疑っていました。今はその野心もなく、再会からのしばらくで再び親しい関係に戻れました。彼にとっての20年越しの真実は聞いてもよいものでしょう。まひろも構えることもなく、素直に頷きます。ここでは人目を憚る必要もなく、未練があっても終わらせた道長の関係です。その思いが、そうさせたのかもしれませんね。


 しかし「何故、妻になれなかったのだ」との言葉には、首を捻り、苦笑いしたまま答えられません。理由の一つは、あまりにも二人にしかわからないさまざまがあり、それを他人に説明することが難しいということでしょう。そして、もう一つ、都と道長を振り切った自分の決断を逡巡するがゆえに、自分の本当の想いとはどこにあるのか、再びわからなくなっているということでしょう。今のまひろには、後者の理由のが大きいように思われます。

 とはいえ、答えられないことを単純に見た周明の「弄ばれただけか」という言葉には、さすがにまひろは「あの人は、私に書くことを与えてくれたの。書いたものが大勢の人に読まれる喜びを与えてくれた。私が私であることの意味を与えてくれたのよ」と、自分は十分、幸せだったのだと言い募ります。道長を庇うつもりはなく、本心です。だからこそ、周明は「ならば何故、都を出たのだ?」と、当然の疑問を口にします。

 「偉くなって世を変えてと言ったのは私なのに、本当に偉くなってしまって…虚しくなってしまったの」と言います。思い出されるのは、道長が望月の歌を詠んだあの夜(第44回)のまひろの表情です。第44回noteで触れたように、あの表情には約束が果たされた嬉しさと、約束が果たされ自分の役割が終わった寂しさがありました。だから、「嬉しくて哀しい」表情だったのです。あの夜の想いは、時間が経つほどに役割を終えた寂しさのほうが際立ってきたということでしょうか。

 人は皮肉なことに、嬉しさはやがて薄れていきますが、哀しみは長く引きずるもの。まひろだけが特別なわけではありません。ただ、まひろは、そんな自分の身勝手な思いが道長に対して不誠実に思えたのでしょう、「そういうことを思う己も嫌になって都を出ようと思ったの」と、旅立ちのもう一つの側面について語ります。まひろがさまざまに一区切りついた結果、道長の手元を離れることは前向きな意味でも自然なことですが、処理しきれない自分の負の感情にとっても必要不可欠なことだったということと思われます。

 周明は、間髪入れず「それだけ慕っていたのだな」とまひろの本心を指摘します。「でも離れたかった」と答えるまひろ。このやり取りによって、周明はかつての自分を思い出したでしょう。何故、まひろの前から姿を消したのか。まひろを愛したがゆえに自分のしたことが許せず、またあれだけのことをして未だにまひろを思う自分の未練がましさに愛想が尽きたからでしょう。まさしく、慕っていたから離れた…。かつての自分と同じだからこそ、周明は、まひろの本心を言い当て、今のまひろの心情も理解できるのでしょう。

 ただ、好きだから離れるという矛盾した行為の末路も周明はよくわかっています。それが、まひろと再会するまでの周明の20年だからです。「捨てたか、捨てられたかもわからないのか」と、まひろの言動を揶揄すると「そんなことしてたら、俺みたいに本当の独りぼっちになってしまうぞ」と真摯な顔を向けます。「独りぼっち」…その言葉に激しく動揺したまひろは「もうあたしには何もないもの…」と絶望的な言葉を口にします。


 「ん?」と聞き返す周明に「これ以上、あの人の役に立つことは何もないし、都には私の居場所もないの。今は…何かを書く気力も湧かない。私はもう終わってしまったの」と思いの丈を一気に語ります。この言葉には、まひろの業が窺えます。「あの人の役に立つ」、やはりまひろにとって、道長といることはただ庇護にいるだけでなく、彼と対等にいられる自分であることです。彼の気持ちが自分に向いているだけでは満足できないし、自信も持てない。「役に立つ」とは、「自分らしくあること」に直結します。

 そして、「何かを書く気力も湧かない」という言葉は、遠く離れ大宰府に来ても「書くこと」へのこだわりを捨てられないその業深さを逆説的に象徴していますね。こう考えると、「都には私の居場所もない」にも深い意味があるような気がします。賢子の一人立ち、彰子の成長、役割を終えた約束…それだけではなく「物語」を書き終えてしまった作家には、作品に対しても居場所が存在していない…そんな意味合いもありそうです。完結した作品は、完全に読者のものだからです。


 「書くこと」が自分の本然であるがゆえに、まひろは「終わってしまったのにそれを認められないの」と泣き出すのです。「書けない」とは、彼女の死と言ってもよい。にもかかわらず、自分は生きている…死んで生きているのか、生きながら死んでいるのか…その狭間でまひろは苦しんでいるのかもしれません。作家特有のこの懊悩は、おそらく人に話せるものではなく、また話しても理解されるものでもないでしょう。多かれ少なかれ、物書きとは自分の作家としての死をどこかで抱えながら、孤独に耐えているのではないでしょうか。しかし、まひろは終わりを認められない…その足掻きこそが、作家としてのまひろ、「書くこと」へのこだわり…彼女は死んでいないと思われます。


 さすがに周明は、まひろの作家としての業はわかりません。ただ、思い悩む想い人の心を救いたくて「まだ命はあるんだ。これから違う生き方だってできる」と返します。これはおためごかしではないでしょう。周明は、再会して後、まひろにまだまだ若さがあることを時折、口にしていました。老け込もうとするまひろにまだ早いと思うのです。そして、まひろが若々しくいると、彼女に恋する彼自身も若やぐのかもしれません。

 もっとも、まひろにこの慰めは意味を持ちません。「書くことがすべてだったの…違う生き方なんて考えられないわ!」と、かえって哀しみを深くします。周明、悩んだ末に「俺のことを書くのはどうだ…親に捨てられて宋に渡った男の話は面白くないか?」と、自分をネタにしろと提供を申し出ます。周明の必死さに呆気に取られたまひろに、周明がバツが悪そうに「ダメか…」と言います。周明の真摯な思いだけは伝わったまひろは「どうかしら」と、ようやく笑顔を見せます。


 何とかまひろの心を救いたい周明は「だったらお前がこれまでやってきたことを書き残すのはどうだ?」と別の提案をします。「残すことほどのことはしてはいないけれど…」と自虐的に答えるまひろに「松浦にまで来たいと思った友のこととか、親兄弟のこととか、何でもよいではないか。そういうものを書いている間に何かよい物語が浮かぶかもしれない」と言います。つまり「書くこと」がすべてであるなら、書き続けることが大切なのではないかということです。

 まひろは「あ…」と気づきを与えられた表情をします。ようやく深い懊悩の出口を見出したようです。周明は、まひろの表情の変化を捉えながら「書くことはどこででも出来る…紙と筆と墨があれば」と答えます。ここで、紙の入手は簡単じゃないぞというツッコミを入れるのは野暮です。周明が言いたいのは、「書くこと」を難しく考えすぎではないのかということ。「源氏物語」という全54帖の大作を書き、人々に評価されたことで、まひろ自身が「書くこと」とは何かを見失っていたということです。大作病にまひろ自身がかかっていたのでしょう。

 ようやく「書くこと」の基本に立ち返ったまひろは、周明の言葉に薄く頷くと「どこででも」と納得します。周明は「都でなくても」と笑い、まひろも「そうね」と答えますが、ここだけは二人の気持ちはわずかにズレているかもしれませんね。
 まひろにとっての「都でなくても」は、これまで得た栄華など自身についたぜい肉を捨てて本然へ帰ることでしょうが、周明にとっては、もっと物理的な意味あい…大宰府にて「書くこと」を続けるということだったと思います。こうして胸襟を開けるようになり、ますます彼女への想いを確かにした彼は、まひろとの未来の夢想を言葉に忍ばせたように思われます。

 こうして、、まひろは作家として再生する糸口を見出したようです。周明との問答は、本来、ずっとまひろのなかでの自問自答だったと思われます。しかし、惟規曰く「ややこしいところ。根が暗くて鬱陶しいところ」(第31回)があるまひろでは、その懊悩はいつまでも同じところを低回するだけで、悩みの深みに嵌るだけだったでしょう。
 都にはそれを語る相手がいなかったまひろにとって、周明との再会は偶然が過ぎるとはいえ、なくてはならないものだったでしょう。そして、「お前がこれまでやってきたことを書き残す」という提案は、「紫式部集」として像を結ぶのかもしれません。


 ところで中年期の悩みにぶつかっているまひろですが、老け込んでいる場合ではないと思わせるのが、彼女より一回り以上、年上の赤染衛門です。ある日の土御門殿、衛門は倫子に依頼された道長の栄華を語る物語の草稿を、倫子に見せています。恐れ多くも遣り甲斐のある仕事だけに衛門の表情には、やや緊張が窺えます。ざっと目を通した倫子は「殿の栄華の物語を書いてほしいと申したと思うが‥これ、」と言いかけますが、気負う衛門は珍しく倫子の言葉の途中で「そのつもりで書いておりまする」と口を挟みます。

 倫子は、困惑したまま「でもこれ宇多の帝から始まっているわ…殿がお生まれになるよりもはるか昔だけれど…」と、やんわりと疑問を口にします。倫子からすれば「道長の誕生から望月の歌を詠むまで」くらいのつもりだったでしょうから、曾祖父の宇多帝の話など何の関係が…というところでしょう。

 すると衛門、毅然とした態度で「お言葉ながら藤原を描くなら、大化の改新から書きたいくらいにございます」と、これでも足りないのだと言い切ります。どうやら、倫子の依頼は、赤染衛門の作家としての本然に火をつけてしまったようです。おそらくは、「物語」を読み、その書き手である身近にいることで、自分も何か書いてみたいと秘かに思っていたのではないでしょうか。大化の改心…つまり藤原家の祖、中臣鎌足から書くべきという壮大な話に、倫子は「へ?」と言わんばかりの呆然とした表情になっています。

 目の前の倫子の表情すら目に入らないのか、衛門は「とはいえ、それでは太閤さまの御代まで私が生きている間に書ききれないと存じまして」と、一応は自分の年齢を考えて「宇多の帝からにいたしました」ときっぱり。目を白黒させる倫子の傍で、子猫(三代目)のニャーという返事が入るのが笑えます。ただ、おそらく宇多帝にしたのは、倫子たち源の祖が宇多帝だからということもあるでしょう。道長と共に敬愛する倫子も書きたいのでしょう。


 そんな衛門の心中はわからない倫子は、ただの生真面目さと受け取り、「殿がお生まれになったのは村上の帝のときゆえ、そこからでよいのではないかしら?」と、再び冷静な助言をします。倫子にしても、早く道長のパートを読みたいですから、読者としても当然の意見です。再び、衛門はキリっとした表情になると、今度は一息吸い込んで「「枕草子」が亡き皇后定子さまの明るく朗らかであったお姿を描き、「源氏の物語」が人の世の哀れを大胆な物語にして描いたのなら、私がなすべきことは何かと考えますと、それは歴史の書であると考えました」と言います。

 道長の栄華を語るこの仕事は、後世のためにあります。唯一無二の価値が必須です。ですから、清少納言、藤式部といった文才豊かなものたちの作品に比肩し得るものでなければならず、それは彼女らが成し得なかったものでなければならないのですね。勿論、まひろやききょうに対する、衛門なりの才女としての矜持があるのは言うまでもありません。

 伏し目がちですが困った顔になる倫子を前に、衛門の言葉はまだ終わりません。「かな文字で書く史書はまだこの世にはございませぬ。歴史をきちんと押さえつつ、そのなかで太閤さまの生い立ち政の見事さとその栄華の極みを描き尽くせば、必ずや後な世まで読み継がれるものとなりましょう!」と熱く語り切りました。「かな文字で書く史書」という点は、まったくそのとおりで、衛門のリサーチはたしかです。まさに、そこに「栄花物語」の価値があります。

 ただ、衛門に気圧された倫子の表情は、もう何を言っても無駄だという悟りの境地があります。「わたし、なんか余計なことしちゃったみたいだなー」という妙な無常観もあるかもしれません。完全な諦めモードを押し隠すような、魅力的な笑顔を張り付けたまま「もう衛門の好きにして好いわ…」と、すべてを託します。また背後でニャーという声がのどかに響きます。こうした、還暦を超えた赤染衛門、「栄花物語」本編全30巻への道が歩み始めます。このバイタリティ…まひろも見習うべきですね(笑)



4.刀伊の撃退に見る隆家の政治センス

 まひろたちが舟越の津へ旅立ったその日、壱岐の嶋分寺から常覚という僧侶がボロボロの状態で大宰府政庁へたどり着きます。常覚は、早速、大宰権帥隆家へ直訴。「3月末、どこの者かとも知れぬ賊が襲来。壱岐の子どもと年寄りが全て殺され、他の者は連れ去られました」と報告します。最終的に壱岐の島民は35人しか残らなかったと言われる甚大な被害、しかも正体不明の外敵からの襲撃という報告に、隆家以下、主だった者たちに戦慄が走ります。
 「作物も牛馬も食い尽くされ、僧も私以外は皆殺され…私はこの手で小舟で何日もかけて…」とむせび泣く常覚を、たまらず「おお、よくぞ生きて知らせてくれた」と駆け寄り、自分を責めるなと労うところに隆家の人柄が出ていますね。


 周りから出た「国守は何をしておったのだ?」との問いに常覚は「国守さまは殺されました…」と絞り出すように答えます。壱岐を責めた賊は3000人と言われますが、壱岐守、藤原理忠はその数に敵わず殺されたのです。敵の勢力は相当、事態が予想以上に深刻…一同に衝撃が走り、緊張が高まります。
 因みに常覚は、国主の軍勢が玉砕した後も嶋分寺に立て籠もり、賊を三度に渡って撃退、最後まで抵抗した末、大宰府へ報告するために脱出したのです。20名未満でそこまでしたその武闘派ぶりに当時の寺院の軍事的性質が表れています。「光る君へ」劇中に出てきた興福寺の僧兵たちだけではないのですね。

 「我らと違う言葉を話します」「兵も船も多数」と常覚からもたらされた情報に「高麗が攻め来たったのかもしれません」との憶測も走ります。かつて、日本は高麗の前、新羅とは戦をしたことがあります。地理と歴史の双方からの発想でしょう。実際は刀伊、女真族、満州族の中核をなす人々です。刀伊の名も唐や宋から見て「東夷」(東の蛮族)というところから付いたと言われます。

 さて、敵の正体に関する情報収集も重要ですが、危機が迫る今、第一は隆家の言う通り「博多に攻め入られてはまずい」…このことです。迅速な対応が肝要と「博多警固所に参ろう」と言う隆家の判断は的確ですが、ここに種材が「その前に筑前、筑後、豊前、肥前の国守に兵士を集めるよう急使をお遣わしなされませ」と助言します。種材も「博多に攻めいられては終わりでございますゆえ」と認識は同じで、そのために「軍勢を博多に集めるのです」というわけです。
 古今東西、物量は用兵の基本です。個人的な武芸はともかく、隆家は専門の武官ではありませんから、こうした進言を「わかった」と素直に取り入れ「今から各地の国守に文を書く。朝廷にも急報する」と、権帥として自分の出来る最善を尽くします。他国の国守への依頼は自筆にて礼を重んじ、国難ゆえに中央への速やかな連絡も欠かさない。非常時においての適切な判断、そして専門家の進言に耳を傾ける隆家の司政官としての力量が光りますね。

 そこへ、対馬守来訪の報せが入ります。いよいよ風雲急を告げる…こうして後世に伝わる「刀伊の入寇」が始まります。


 4月8日、火急のなか、寄せ集めた武者たちを前に隆家は、「敵は刀伊と呼ばれる異人たちだ。これから我らは博多警固所で敵の来襲に備える。一歩たりとも敵を踏み込ませてはならぬ。何としても守り抜くのだ!」と檄を飛ばします。双寿丸のように大規模戦闘の経験のない者もいるでしょう。士気を高めるための鼓舞は必須です。
 ただ同時に「しかし言うが、決して無駄死にするな」と逸る心を抑えることも伝えます。勇猛さだけでは戦には勝てず、かえってその果敢さが敗けを呼ぶこともあります。引き際を知る冷静さも合わせ持つ必要があるということでしょう。隆家は絶妙なバランス感覚で「者共奮え!」と鼓舞し士気を高めているのですね。


 一軍はその日のうちに博多警固所へ。出迎えた大宰府の役人、平到行(むねゆき)から「賊は能古島に向かったようでございます」との報告を受けます。最早、本土とは目と鼻の先、一刻の猶予もない状況。志摩から、賊の首が届けに来た文屋忠光は「100人が殺され、400人が連れ去られ」る甚大な被害を受けながらも「何とか打ち払うことができました」と涙ながらに報告します。
 「よくやった」と最前線で戦った忠光を労った隆家は、次第に博多に近づく賊に危機感を募らせ、「各地の兵はどうなっておる?」と問い質します。しかし、為賢も「使者は出しましたが未だ…」と答えるしかなく、一同の顔色は暗くなります。

 準備が整わないまま迎えた翌9日、早くも敵の船団が迫るのを見張りが発見します。昨日の今日では状況が変わるわけもなく、各地からの兵はまだ到着していません。到行が「何故、兵は来ないのでしょう…」と焦れるなか、隆家は「出陣する!」との判断を下します。「え?」と驚く一同に、隆家は「小勢でも今我らが打って出て食い止めねば。陸に上がられては無辜(むこ)の民に害が及ぶ」と、その大義を説きます。

 何のために戦うのか。国土を守ること以上に民を守ることを隆家は重視します。冷徹な戦略眼であれば、軍勢を整え、確かな戦術で敵を殲滅する考え方もあります。しかし、国の礎は民。民の滅んだ後で国土から敵を撃退しても意味はありません。戦いは物量も大切ですが、出るべきときに出て、引くべきときに引く…機運も大切です。守るべき民が見えている隆家は、その機を過たないのですね。当然、武者たちの士気は俄然、高まります。


 軍勢を二手に分けた隆家は、種材や到行らとともに崖の上から浜辺を窺います。敵の小舟の到着を確かめると、為賢に知らせるために音が鳴る鏑矢を放ちます。すると、初めて聞く鏑矢の音に驚く敵は統率が乱れ始めます。これを見た種材たちは、鏑矢を打ちまくり、敵を撹乱。
 駆けつけた為賢以下の双寿丸たちの切り込みは、結果的に奇襲の効果も生みます。海上へは弓矢への長距離戦、陸は乱戦模様となりますが、臨機応変に敵の隙をつくことが出来た隆家たちは、寡兵ながらも敵を一旦、能古島へと押し返すことに成功しました。


 隆家は、警固所に戻ると「見事な働き、皆、よくやった」と労いますか、士気の上がる一同は「されど、まだ気を緩めませぬ」と慢心しません。隆家の民を思っての出陣が、士気を上げ、勝利をもたらし、なおかつ緊張感を保たせています。
 そこへ財部弘延、大神守宮が兵を率いて、警固所へ到着しました。「遅いではないか」とついつい詰ってしまう到行に対して、隆家は「よく来てくれた、礼を申す」とあくまで丁重にもてなします。隆家は、大宰権帥という権力をむやみに振りかざしません。この腰の低い貴族が権帥と知った弘延と守宮は「敵を蹴散らしたそうではありませんか。流石、帥さまですなぁ」と激賞しました。人間性と結果が、隆家に味方しています。


 改めて揃った一同へ「敵は能古島に戻ったが、これ以上攻めてこぬようにするには、こちらから打って出て、追い払わねばならぬ」と、指揮官として今後の方針、そして「それには戦舟がいる」と必要なことを示します。既に隆家の信頼は絶大、武者たちは「かき集めましょう」と自ら動き出します。
 役人である到行だけは「それは朝廷のご許可がいるような…」と異論を唱えますが、武者たちに「そんなのは待ってはおれぬ」と一喝されてしまいます。敵が目の前にいるなか、遠く離れた都の裁可を仰いでいる時間はないのは当然です。しかし、そこは隆家、その報告もしておくほうが賢明と判断、信頼する為賢へ任せます。現場は現場、朝廷対策は朝廷対策、どちらも疎かにしない隆家は大所高所の物の味方が出来るようです。


 さて、全体の方針が決まったところで助高が「帥さま、菅原道真公の御霊の力も借りてはいかがでしょうか」と進言します。決戦も近い今、兵を鼓舞する神頼みは効果的です。使えるものは何でも使う…隆家はすぐに許可、助高は「祈祷させます」と下がります。隆家が気づかぬところも、こうしてアイデアが上がってくる。これも仲間を大切にする隆家の政の効果でしょう。
 次に隆家は、土地勘のある弘延、守宮に「次に攻めてくるとしたらどこだ?」と問います。「対馬、博多を避けるとなると…船越の津のあたりでしょうか」という弘延に「ああ、あの辺りは野良人しかおりませぬゆえ、敵が来たら易々と陸に上がられてしまいます」と相槌を打ちます。戦いには地の利が大切です。隆家は、早速、地理に明るい二人に「お前たちは兵を集めて舟越に参れ」と任せます。隆家のもとで、武者たちはそれぞれに自分の得意とするところで、自ら協力し、隆家も彼らを信頼して任せています。能力主義の適材適所が功を奏しているのです。

 こうして、皆の協力で舟は集まりました。いよいよ、反撃のとき、「為賢たちは舟で能古島を目指せ。もし敵が島を出たら、とことん追いかけて追い払え」と、今度こそ完全な撃退を命じます。その一方で「ただし対馬より先に進んではならぬ」とも厳命します。「何故でございますか」と聞く為賢に「対馬より先は高麗の海だ。そこまで行けば、こちらから異国に戦を仕掛けることになる」と、領海侵犯による望まぬ戦を避けるためだと言います。

 このことから、隆家が「刀伊の入寇」を単なる戦と捉えていないことが窺えます。刀伊の入寇は外交問題、つまり政の問題になることを意識しています。現状では、刀伊の目的は判然としません。万が一、高麗と結託していないとも限らない。だとすれば、こちらの領海では徹底的に叩きつつ、深追いをしないのが政治です。隆家は戦上手なだけでなく、外交センスもあるようです。


 第46回では、「刀伊の入寇」の結末は描かれませんが、今回描かれた隆家の卓抜した手腕によって、賊は打ち払われることとなります。隆家の活躍の原型は逸話にあるものですが、「光る君へ」で描かれたその一々が道長の政の志に適うものであるのが皮肉なところです。身分にこだわらない仲間意識、身分ではなく能力主義の適材適所での登用、矮小な権力闘争がないこと、広く多くから意見を募り生かすこと、民や下々の者を思う政、私欲のない為政者…それらが、隆家のもと、大宰府では実現されています。まひろが、その様子に顔を輝かせたことが何よりの証拠でしょう。

 このことは、実は、隆家こそが、政治的発想や志が道長に近しい人物だったということを意味しています。隆家が、自身の志を形にできたことは、彼自身の能力だけでなく、偶然、大宰府に赴任し、内裏の価値観の外で世の現実を見たことが大きく作用しています。若くして頂に上った道長には、そうした機会は訪れようもありません。とはいえ、道長が、隆家の才覚に気づかぬまま、寧ろ警戒さえしていたこと…そこに道長の政の限界があったのだとは言えるでしょう


 もう一点、言えば、道長と実資の政治問答(第43回)のなかで、実資は「朝廷の仕事は、何か起きたとき、真っ当な判断が出来るように構えておくことでございます」と述べました。有事でも対応できる揺るぎなき政治体制の維持を政の柱ということです。「刀伊の入寇」こそは、実資が言うところの「何か起きたとき」そのものです。果たして、大宰府の対応はどうであったかと言えば、上から下までが自発的に自分たちの役割を果たし、連携も取れていました。それは、権帥である隆家の日頃の執政と人徳が、下々にまで浸透しいたからこそ機能していたと言えます。

 ともすれば、実資の言う政治体制の維持は、システムの硬直化を招きかねないものですが、「刀伊の入寇」における対応は、しきたりや慣習に囚われすぎず、かと言って無視するでもなく、隆家は絶妙なバランスを取っていたと言えるでしょう。たぶんに臨機応変だったことも功を奏しています。つまり、隆家の大宰府における善政は、道長の志、実資の基本の双方の落としどころを見つけているとも言えるのではないでしょうか。

 こうした隆家の手腕は、道長に批判的な「大鏡」では「やまとごころ(大和心)かしこくおはする人」(処世上の知恵や才能がすぐれていらっしゃる人)と、政治家としての判断力と実行力を備えていると賛辞を送られ、当の道長からも「すてぬもの(捨て置けない者)」と評されることになります。ただ、それゆえに政争に明け暮れるばかりの朝廷では警戒されるのですが、それは次回、描かれることになるでしょう。


おわりに

 「刀伊の入寇」を知らぬまま、まひろたちは船越の津へもうすぐというところまでたどり着きます。ここまで来たところで、周明は「松浦に言って思いを果たしたら必ず大宰府に戻ってきてくれ。そのときに話したいことがある」と、まひろと約束をします…ってやめてほしいですね、この展開は(苦笑)古今東西の多くの物語で「俺、この戦いから帰ってきたら結婚するんだ」のようなことを言って、儚く命を散らした登場人物がどれほどいたことか…完全に死亡フラグです。
 おそらく、周明は、まひろと再会し、自分の想いを再確認し、まひろに想いを告げるつもりだったのではないでしょうか。かつて、謀混じりゆえに「貴方は嘘をついている、私を好いてなぞいない」(第24回)と言われてしまいましたが、今度こそは…。もしかすると「大宰府で共に暮らそう」とまで言うつもりだったかもしれません。


 そして、その約束をする最中、賊たちに追われる人々に巻き込まれ、賊たちに囲まれてしまいます。そこに財部弘延、大神守宮とともに双寿丸が現れ、敵を蹴散らします。双寿丸の「逃げろー!」の言葉に逃げ出すまひろたちですが、転んだ彼女を救おうとした周明は、賊の矢に倒れてしまいます。物語的には、作家としての懊悩するまひろを助けるためだけに再登場し、そして呆気なく退場したようにも見える周明。あまりにもご都合主義に見えて、別の意味で周明への憐憫を深めた視聴者もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、周明の側から考えてみると、この結末には別の側面が見えてきます。想い人を裏切った良心の呵責から孤独を抱えて20年を過ごした周明。通詞として信用を得、薬師としての夢を再開したとはいえ、どこか満たされなかったでしょう。そんななか、まひろと思わぬ再会を果たし、許しを得たばかりか、再び楽しく過ごす機会を得、またまひろの懊悩を解くことに一役買えました。彼女の役に立て、語らえたこのわずかな日々は、この20年の苦難への褒美だったでしょう。再び、若き日の恋心を蘇らせた周明は、幸せだったでしょう。そう考えれば、周明の哀しい人生にそれなりの辻褄をつけた最期かもしれません。


 また、理想的な政が行われていた大宰府に賊が攻め入り、人々が死んでいくこと…どんなに希望を求めようと、理想が叶えられようと理不尽に人は死んでいく…周明という身近な人の死は、再び、まひろに人生とは何かを問いかけているように思われます。

 思えば、まひろは身近な人の死を受け止めることばかりでした。惨殺された母ちやは、理不尽な死を迎えた直秀、遠方で若死にしたさわ、呆気なく逝った夫宣孝、家族を思い若くして亡くなった惟規、彰子に思いを残し逝った一条帝、そしてまひろを助けようと散った周明…あまりにも多くの納得しかねる死を知っています。死んでいった者も悲しいですが、残された者の懊悩は耐えがたいものがあります。この宿命が、書き手としてのまひろにつきまとうのかもしれません。旅の果てにまひろが何を得るのか、そしてやがて訪れる道長の死にまひろは何を思うのか。終着点は近いですね。



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