「光る君へ」第3回 「謎の男」 平安貴族に大事なものは時流と空気を読む処世術
はじめに
まひろと道長の関係に深く関わりそうな人物たちの登場によって、ようやく役者がそろったというか、往年のトレンディドラマ(死語)のような恋愛劇の雰囲気が増してきました。ラストの、まひろと道長が出会うシーン、そして、彼らを引き合わせるキューピッド役のような直秀の布仮面が、はらりと落ちるシーン、これらがセットでスローモーションで流されると、これから始まるのが三角関係か何かかと思わせますよね(笑)
一方で、こうした彼らの恋愛劇に対して、兼家の権勢の頂点に立つための様々な政治工作もいよいよ佳境に入っていく様子も描かれました。それは、この権力争いが、まひろと道長の間に強く絡み、そして二人の障害にもなっていくことが仄めかされていることも意味しています。
それでは、陰謀渦巻く貴族社会で生きていくために必要なことはなんでしょうか。今回は貴族たちの政局への適応の仕方から、彼らの生き方について考えてみましょう。
1.男たちの社会を無難に泳ぐ道長~愛されキャラの裏側~
(1)兼家の野心と貴族たち
① 兼家の敵対者の場合
序盤3話の背景にあるのは、兼家が天皇の外戚となって権勢を握っていくプロセスです。ですから、円融帝と各貴族が彼の野心とどう付き合っていくのかということが、物語上、重要になっていきます。
まず、円融帝です。前回、詮子を遠ざけた件からもわかるとおり彼は兼家の野心を警戒し、牽制しています。それゆえに兼家は、道兼を通じて食事に健康を害する程度の毒を盛り、元々病弱な彼の意思を挫こうとします。邪気払いの祓をする安倍晴明を抱き込むなど、その用意周到さは念入りです。
その暗躍によって体調を崩した円融帝は快復後、実資の諫言も空しく譲位の意思を示します。円融帝は、同母兄・冷泉帝から譲位され、帝位につきました。しかし、次の帝位は兄、冷泉帝の第一皇子、師貞親王(花山帝)です。このままでは、彼の血統が天皇家の正統になることはありません。皇族も貴族も、我が家の繁栄が第一。彼の政治の本音は、いかにして息子に帝位を継がせるかにあります。
そして、彼にとって不本意ながら、息子は詮子との間に生まれた懐仁(やすひと)親王のみ。結局のところ、どんなに政治的に張り合おうとも、懐仁親王の外戚として権勢を握りたい兼家とは、利害関係が一致しているのです。譲位は、早いか遅いかの違いしかありません。ですから、彼は最も信頼を置く藤原実資の諫言も退け、懐仁の立太子を条件に譲位を飲むことにします。
実資の「小右記」によれば、懐仁が後に一条帝になったとき、院政を考えていたとも言われていますから、ここで兼家に譲歩してもいつか機会は訪れると踏んでの戦略的撤退だった可能性もありますね。そちらであれば、円融帝もなかなかに狡猾と言えるでしょう。
どちらにせよ、悲惨なのは、「ほれ、ほれ、ほれ」と扇子を足で捌く芸に磨きをかけている師貞親王です。本音では、誰にも帝位に就くことを望まれていないのに、ただ周りの政治的事情で最初から早々に退位させることを前提で帝位に就かされようとしている。彼自身の意思とは無関係にただの道具にされているのですね。もっとも、本郷奏多くんの軽薄な名演のおかげで、その哀れな末路も笑ってしまう可能性もなきにしもあらずですが(笑)
帝すらも兼家の策に嵌ってしまう中、一人正論を唱えたのが、円融帝の信任が厚い実資です。彼は優秀な人材です。師貞親王への譲位を反対したことも、うつけとの噂が絶えない彼が帝位に就くことで世が乱れるとを憂いてのことです。
また、円融帝の病についても、邪気払いの効果の遅さから、呪いの類ではなく、食事の問題を疑い、早急に膳にかかわる女御たちを調査しようと取り掛かります。しかも、迅速に確実に進めるため、ただ一人で取り組みます。この勘の良さと迅速さは、彼の優秀さと帝への実直さに支えられていると言えるでしょう。前回、彼が検非違使に関する兼家の進言を「好きではないが」認めたのも、それが正しいと判断したからです。
あの兼家に、自らの派閥ではない実資を抱き込まねばと思わせるだけの実力が、実資にはあるのです。
しかし、結局、その調査は女御たちの有言無言の猛反発と圧力に屈することになります。宮中を歩く彼を追う女御たちの「いけ好かない」「私たちを疑うなんて無礼極まりないわ」「無礼、無礼、無礼…」の悪口雑言を聞かざるを得なくなった実資の様は居たたまれないものがありますね。
女子高や女子大で教えた経験がある教員であれば、誰しもが一番恐れているのは、実資のようなことになる状況です。女子集団を敵に回して信頼を失うと、回復はほとんど不可能に近くなりますから。
また、女子集団は、内部では多くの派閥が入り組んでいますが、事、外部の敵に対しては強力な結束力を発揮するので手ごわいと思います。
ただ、この女御たちの反発は、兼家の手も加わっているかもしれません。彼は宮中に噂を流させることに長けていることが、前回示されていますからね。実資の失敗は、宮中の時流に逆らったことと女性陣たちの空気を読めなかったことにあります。つまり、宮中で大切なことは、正しさや正統性の主張ではありません。空気を読むことなのです。
② 下級貴族たちの場合
さて、実資とは逆に時流に乗るのが、安倍晴明や為時です
まず、晴明は当初、兼家の願いを蹴って裏切り、関白頼忠の側に着いた後、改めて兼家に忠誠を誓っています。風見鶏的な彼の態度を兼家は表立っては、何も言いません。ただ、役に立てばよいからです。そこを見越して晴明は、どうすれば自分が生き残れ、そして利益を得られるか、それだけに徹して自分の才を振るっています。
その呪力は、本気の呪詛もできそうな雰囲気はありますが、表立っては「晴明の祈祷がきいてきたのかもしれぬな」という円融帝の言葉に見られるようによくはわからない扱いになっています。ただ、円融帝の快復の頃合いを見計らって「もう一つの重荷を降ろすべし」と、退位という言葉を使わずに退位を仄めかす進言をするなど政治的パフォーマンス、心理操作としての陰陽道の使い方には長けていますね。
また、この進言をわざわざ兼家に告げて、自分が気の利く者であることをアピール、褒美をせしめる抜け目なさからは、下情に通じた世俗的な陰陽師のあり方が窺えます。
褒美を示された際、晴明が従者に向けた何とも言えない自虐的な薄笑いが強烈ですね。陰陽道は、天文に通じた当時、最先端の科学です。その学問の価値もわからない者たちが、政治的に陰陽道を利用することは忸怩たる思いがあるはずです。
しかし、彼らの政治があってこそ、これらの学問もその存続が許されているのも事実。従うより他ありません。学問が、権力から自立するのはまだまだずっとずっと先の時代の話です。
ですから、あの自虐的な薄笑いには、兼家ら政治家たちの権力闘争への侮蔑と褒美目当てに彼らの風下に立つしかない自分自身への嘲りが含まれていると思われます。
ただ、政治協力に徹する以上、最大限の報酬は得ます、それが陰陽道に携わる者のとしてのささやかなプライドです。あの笑みには、「してやったり」という酷薄さもあるかもしれませんね。
ともあれ、彼は、宮中の空気を読み、時流に乗ることが大切であることを、その能力からよく知っている人物と言えるでしょう。
そして、為時です。彼は、教育係という名目で東宮殿へスパイとして送り込まれてはいるものの、本質的には学問バカです。そのため、スパイとしては要領が悪く、兼家の望む情報を提供できません。今回も遠縁の親戚にあたる左大臣の娘が東宮へ入内する可能性について答えられず、退席を命じられてしまいます。
彼は公的に任官された立場ではなく、あくまで兼家による私的な雇用でしかありません。師貞親王が帝位につけば別ですが、それ以前の段階で、兼家に役に立たないと思われる、あるいは彼を怒らせるなどをすれば、一巻の終わりです。そこで彼は、まひろを左大臣の北の方穆子と娘倫子が開くサロンへと送り込むことを、自ら提案します。
後に真実を知ったまひろは、為時に「私を間者にしろと」兼家が言ったのかと問うていますが、そうではないんですよね。まひろは、父を信じたいばかりに兼家を主体にしていましたが、事実は為時が申し出たこと。死活問題とはいえ、時流に乗り、出世するために娘を利用することを厭わない。それが貴族社会で生きることであることを、学問バカの為時ですらするようになっているのです。それがバレ、追及されても悪びれることもなく、寧ろ脅しにかける始末ですから、まひろとの溝は深まるばかりになりますが。
このように兼家の野心の進展とそこに絡む人々の様相は、権力闘争ばかりの貴族社会において、大切なことは正道ではないことを仄めかしています。それよりも、自分自身の欲望を叶えるために時流を読み、上司や周りの空気を読み、それに迎合していくことが大切なのです。
(2)周りから安牌と見られる道長
帝や他の貴族たちも兼家が起こした時流に妥協することで生き残りを図っていきますが、それは息子である道兼も同じです。既に6年前の殺人の隠蔽で首根っこをつかまれている道兼は、唯々諾々と兼家の指示に従うより他ない立場です。ただ、道兼にとっては、父と秘密を共有し、その陰謀に加担しているということ…つまり父の役に立っていると自覚できること自体は喜びです。それだけが、彼が父に愛されているという実感になるからです。
この思いは、複雑です。裏を返せば、道兼は最早、こうする以外に父の愛と関心を買うことができないと自覚しています。彼は無意識のうちに父に愛されていないことを知ってしまいました。だからこそ、自由そうに振る舞い、それで父から許されている弟、道長への憎悪をより募らせていのです。
さて、兼家は、そんな道兼の必死の思いなどはお見通しです。笑って、「一族の命運はお前にかかっておる」と期待をかける一言を与えるあたりが恐ろしいですね。彼は笑って謀略を進められる人物です。
それは、道兼に毒を盛っている女を抱いたのか、庇護されていると思わせれば口を割らないと説くあたりにも象徴されていますね。当然、この言葉は経験則でしょう。彼もまたこうして生きてきて、それを息子に伝えているのです(うろたえている道兼は初心ゆえにそうしたことはしていないのでしょう)。
さて、逆に道長は、こうした宮中の権力闘争に対して、意図的に距離を置いているように見えます。暇さえあれば、散楽を見るため市中をお忍びで回り、なんとなく気になるまひろを探しに出かけたりします。それは、三男という気楽な立場に甘んじているだけではなく、彼の性質によるところが大きいのでしょう。
道長と父たち平安貴族との違いが端的に表れているのが、検非違使に誤認逮捕された件です。彼は捕まったとき、まず気にしたことは、自身のことではなく、まひろをそれに巻き込まないことでした(そういう男だったからこそ、散楽師の直秀は彼がどうなったかを調べ、まひろにそれを伝えたのでしょう)。また、捕縛された件についても自身が兼家に叱責されたことよりも、従者の百舌彦が放逐の罰を与えられることでした。姉の詮子への必死なすがり方からもそれは伝わりますね。
つまり、道長は利他的な面を持った人間なのでしょう。それだけに、自身の利害に汲々とする父や他の貴族たちの争いには、馴染めないものがるのだと思われます。だから、彼は市中へ出かけてしまいます。彼からすれば、市井の人々のほうが、素直に生きているように見えるのではないでしょうか。
妙に泰然自若としたところがあるのも、自分の欲にとらわれていないからでしょう。それは、詮子やまひろに対しては親しみに見え、父兼家にとっては不甲斐なさに見えるわけですが、それはどちらも正しいのでしょう。道長は、まだ自分が本当に浴するものが何かに気づいていないだけかもしれません。
ともあれ、こんな彼ですから兼家の上昇志向に素直な疑問を返してしまい、「上を目指すことは、我が一族の宿命である」と叱責されます。口減らずな彼は「三男だから」出世は関係ないと答えますが、すかさず兼家は「わしも三男じゃ!」と返し、同じ三男だからこそ「望みを懸けた」とまで言い、その無欲さに呆れます。道兼が直感するとおり、兼家は道兼には甘いようです。それは、兼家自身が、長兄には可愛がられましたものの、次兄とはとことん反りが合わず、苦労していた経験によるものなのでしょう。
そう考えると、下々の暮らしを見分したとうそぶく道長に「なまじ知らば、思い切った政はできぬ」と叱ったのも、時に民を切り捨てる決断をしなければならない政治の無常観を知るからこその親心かもしれませんね。
勿論、それは、幼い頃から下々の者を慈しみ、人間として扱うべきという優しい道長からすれば詭弁です。彼が漢籍を学ぶことを嫌うのは、勉強嫌いであると同時に、そこで語られる仁徳の政を貴族たちが実践していないからでしょう。空虚な学問にしか見えていないことは、公任の孟子の暗誦を聞く場面にも表れています。
かといって、彼が時流もわからない愚か者ではないことは、詮子がしっかり見抜いています。ただ、納得のいかないそれとは関わりたくないため、上流貴族の三男であることを利用し、太平楽を決め込んでいるのでしょう。彼なりの処世術と思われます。
こういう道長のあり様は、同年代の同僚も敵にしません。それが今回、登場した関白頼忠の息子、公任と大納言為光の息子、斉信です。彼らは、親たちの権力争いの中で出世争いをする羽目になっています。しかし、道長はこの二人と殊更、争う気配がありません。
持てすぎて和歌を送られまくるプレイボーイの公任が話題の中心になった三人の会話も象徴的です。公任と斉信の語る女性観は、ルッキズムだわ、和歌の手間を飛ばして抱けばよいという女性蔑視だわとホモソーシャル全開(苦笑)しかし、道長はこれに乗ることがありません。
おかげで道長は「道長がいるとホッとする」「そこが良いところ」と言われる始末。これは、三人の仲が良いのではなく、単に道長が出世のライバルだと思われていないということです。盗賊に間違われる間抜けさ、女性に奥手なところ、それらはホモソーシャルな男性社会においては恥ずかしいことだからです。
しかし、後々、彼らが一条帝の御代、道長を支える人たちになることにつながるとするならば、このとき敵にならず、彼らの懐に飛び込んでいたことが功を奏したことになるのかもしれません。
確かに平安貴族が生き抜くためには、時流を見極め、空気を読み、それに迎合していくことは必須です。しかし、それは、必ずしも権力闘争の中で毀誉褒貶を繰り返し、駆け引きを積極的に行わなければならないということではない。
相手の気持ちを読み、敢えてそことは距離を置きながら静観するのも一つの処世術です。この姿勢は、相手の身分にかかわらず、敵を作らず、味方を作ることができます。これが、道長の人徳なのかもしれませんね。
2.空気を読めないことが致命的な女性社会
女性たちの社会も、時流と空気を読むホモソーシャルな男性社会の影響を免れません。というよりも、鏡合わせのようなものです。というのも、女性たちは、父たちの権力争いの道具であり、誰の娘であるのか、誰と婚姻したのか、それによって立場が決まるからです。ですから、恋バナ好きな詮子も、あまり賢くなさげなまひろの弟、太郎も、身分違いの恋愛も婚姻もあり得ないというのです。比較的、人を差別しないような彼らですがそう言うというのは、婚姻が全てを決める平安貴族のあり方を象徴していると言えるでしょう。
したがって、身分や立場が大切ということは、男性に限らず、女性の平安貴族たちも同じということになります。そのプライドをいかに保ち、壊されないようにしていくかが大切になのです。
それを端的に表した一つが、定子が転んだシーンですね。定子は、既に詮子の子が帝になったときに入内させる予定の子です。中宮になることを約束された子です。彼女が転んだとき、叔父の道長は助け起こそうとしますが、定子の母、貴子はそれを止め、一人で起き上がらせます。そして、貴子は「転んで泣いているようでは入内しても務まらない、強い心を持たなければならない」と、入内の覚悟を説きます。
幼少期からここまで言うかと思いますが、貴子の言動を傍にいた詮子も止めていません。おそらく詮子もそう育てられてきたのでしょうし、宮中で心ない言葉を受けてきただけに実感があるのです。女御たち同士の争いも熾烈です。その中である程度の味方を作り、そして折れないでいることは大切なのでしょう。これは、一種の帝王学なのです。
因みに道長だけ助けたところに、彼が一族に染まり切っていない面が出ていますね。
そして、貴族の女性社会を象徴したもう一つが、まひろが招待された北の方のサロンです。ここでは倫子を始めとした未婚の貴族の娘たちが、赤染衛門から教養の指南を受ける場です。自己紹介の際、父の名と任官が問われるあたりに、この社会がホモソーシャルの延長線上にあることが窺えます。ここは、女性たちが互いのプライドを張り合いつつも、一方で互いを傷つけあわないよう注意深く振る舞う場なのですね。
しかし、まひろは、漢字の偏とつくりによる偏継というカルタ遊びの一種で、自分の力をひけらかし、札を総取りしてしまいます。周りとコミュニケーションを取ることがなく、母の死から自分の殻に閉じこもっていた子が、突如、キャピキャピとした(死語)明るい恋愛女子たちのもとに放り込まれれば、戸惑いと舞い上がりの波状攻撃でおかしくなるもの致し方ないかもしれません(そう思わせる吉高由里子の芝居の匙加減の巧さ!)。
しかし、流石に大人である北の方と赤染衛門は、気にも留めていないとはいえ、他の子女たちのプライドをひどく傷つけ、場がしらけてしまうのはどうしようもありません。
ここで機転を利かせたのは、倫子です。彼女はさっと空気を読むとごく自然に「すごーい、まひろさんは漢字がお得意なのね」「一枚も取れませんでした」と明るく返して、場を和ませ、まひろを救います(黒木華さんの「ころころ笑う」の表現が抜群)。彼女らを招いた主家の娘のとりなしだけに、他の女性陣も無碍にはできず、その場は収まります。
倫子は、挨拶の際に「研鑽」という言葉を使い固くなっていたまひろに「遊び」だとそれとなくあまり真剣にならぬように伝えているんですが、陰キャのコミュ障のようになっているまひろには全く伝わっていません。その後のサロンでも無自覚に失態を繰り返しては、倫子にとりなしをさせています。
父と同じく学問バカで空気が読めないまひろは後々、こうしたひけらかしで痛い目に合うのですが…自業自得になりそうですね(苦笑)
因みに倫子は、この場で的確な反応をするものの、実際、まひろをどう思ったかは掴めません。まひろは、これまでに会ったことがない方と大絶賛ですが。わざわざ、場を和ませ救ったところ、「赤染衛門にいい相手」とうそぶいたところからすると、その空気の読めなさと賢さのアンバランスを面白がっているようにも思えます。後々、道長の正室となり夫婦仲は良かったと言われますから、大らかな人である可能性は高い気はします。
が、まひろの見立て違いで、実は愚かな女であると断じ、軽蔑したとすれば、それはそれで平安貴族の女性のすごさを垣間見ることになります。よく言われる「ぶぶ漬けでもどうどす?」に見られる京都人の気質の話みたいですね(笑)
何はともあれ、道長とソウルメイトとなる設定のまひろにとって、後の道長の正室、倫子は、格の違いを見せつけた登場をしました。そして、まひろに宮中で必要はことは、空気を読むことであることをやんわりと伝えてくれました(彼女がわかっているかどうかは別として)。
おわりに
第3回では、平安貴族が、その社会で生き抜いていくには、男性社会でも女性社会でも、正しさや自分の信念にこだわらず、時流を読み、場の空気を読み、それに迎合していくことが最も大切であることが示されました。自分の感情や自由を殺して、上や周りにの理不尽に従う。そうしなければ、自身の願いを叶え、また自身を守ることもできない社会なのです。
そして、貴族でなければ、その過酷さはもっと厳しいことになります。それゆえ、彼らから人として扱われない民衆は、散楽で時の権力者を揶揄するのでしょう。
さて、既に社会に出ている道長は、彼なりの処世術を身に着けていますが、まひろはそういうものをまだ知りませんでした。ですから、父が北の方のもとに自分を間者として送り込んだことが悲しく、許せません。
おそらく、北の方サロンへ行かせてくれたとき、まひろは父の愛情を感じたのでしょう。そして、母が父を愛していたことは間違いではなかったと少しだけ思えたのかもしれません。しかし、それは裏切られました。勝手な期待とはいえ、それがあっただけに余計にショックだったのではないでしょうか。
そして、その裏切りによって、また母の父への想いという真相は遠ざかります。琵琶を見つめる彼女の眼差しが切ないですね。
しかし、一方で彼女は、父を責める矛先を収め、この先も間者を務めることを前提に倫子のもとを訪れることにします。それは、大人の世界への好奇心であり、母の死の謎を追う唯一の窓であるからでしょう。
同時にそれは、道長との関係の試練の始まりにもなりますね。直秀、倫子、道兼は、そこへどう絡んでくるのでしょうか、予断を許さないですね。