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社会変革に伴い外れ値となった自由に関する議論【ナチス占領下から学ぶ】

大学入学共通テストを経て1か月程度の猶予期間が与えられている。

進路が決まった人も、あるいはそうでない人も、自分のことを考えることが出来る有意義な時間である。

私が第一志望としている大学は国立大学であるため、その本試験というものは2月の下旬となっている。

入試科目として生物・化学・数学・英語を課しているため、それらに日々忙殺されざる終えないのだ、、、

ところで私は受験という制約に駆られながら自由とは何かについて考えてみることにした、、、

ここでの論点とはどうすれば自由になれるのかということである

自由とは不自由という逆説的な問いに対して

ナチスへの信任の自由は人々を拘束する

近代以前に入り人々が自由に関して模索する機会というものが増えた、、、

このような自由の不自由性に関しては特にナチスの占領下に置かれていた
ドイツで議論されたように思える。

この事は想像に易い、、、

人々は自由を得てその集団の民意をナチス党に委譲したということだ。

高校生であるため詳細は分からないが、政経倫理の授業を通しても
フランクフルト学派のアドルノやホルクハイマーに関しては学習している

彼らにとってナチスドイツとは矛盾の象徴であったのであろうか、、、

人々は自由を得たがそれを活用できない、、、空っぽの存在なのかと、、

その結果は言うまでもないが、人々は不自由を被り、ドイツ史における汚点を残す結果となった、、

歴史を考慮した上での自由の不確実性について

自由であることについて考える際に、歴史上の反自由的な反例を挙げさせてもらった。

この史実を踏まえると自由とは!!

それを制御できる人間がいない限りは実現しないと考えられる、、、

つまりは自分以外の第三者である!

私たちは良くも悪くも他者に依存して生きている。

人々は個人の自由を主張する!!

一方で、その自由は集団的な第三者集団に癒着しているのである、、、、

自由とは矛盾であるとしたら

近代における自由の概念は、他者の意志にではなく、自己自身の意志に従って行為することとして捉えることができる。この自由概念が封建的な身分制からの解放という思想を導き、ヨーロッパにおける市民革命を育んだ。社会契約説では、政府による統治がその正当性を獲得するのは、社会契約に対する被統治者の同意によるとされた上、社会契約を破った政府に対しては、これを覆す権利(革命権)があると説かれている。

Wikipedia

これはWikipediaの引用である。

大衆的な理解としては自由は他者の関与からの解放を意味するのである。

このことは水と油の如く、私の主張とは馴染まない!!
なぜなら、私にとっての自由とは他者の存在なしには成立しないためである

ここでナチス党の例を反面教師に見てみたいと思う。

人々はヒトラーというカリスマ的支配者に民意を委譲している。
そのため私の論理に則った場合、彼らは自由であったと言えるであろう。

しかし一方で抑圧が生まれた、、、

これは義務と権利の関係を踏まえると説明が出来ると思う。

相対的な関係において権利と義務というものが発生することは必然である

ここで重要視すべき点は、権利は任意、義務は強制であるということである

ヒトラーに民意を託す権利は任意であるが、ヒトラーはその受けた民意を
反映する義務がある。

つまり抑圧されていたのはヒトラーであったということである。

アーリア人のアーリアとはサンスクリット語で高貴な人という意味である

純正ドイツ人種を正当化して、ユダヤ人を排斥したホロコーストの原点はこのような権利と義務の不均衡性に帰着するのではなかろうか、、、

私は集団において人々が自由になることは出来ないと思う

集団行動という言葉で着飾られた概念は我々を個から他へと押し出す手段となっているのだ、、、

学校・行政機関・公共機関・国といった様々な機関的概念に我々は籍を
置いている、、、

学校が嫌いではないし、行政や公共機関は暮らしを快適にして、国は安全を保障してくれる

私はむしろ、この状況を自由と呼ぶべきであると考える!!

悲観的な態度には違いないが、個人的な自由を追い求めることは本質的な
解決手段にはならない

私たちは上記のような機関をなしに生活することは出来るだろうか、、、、
教育に関しては義務、公共団体や国に関しては納税の義務が課せられている

ネット教育に関しても同じことが言えるであろう
本人の意思は関係なく効率化のためにもスマートフォンはわが校では頻繁に使用される。

効率的な学習体系の確立という面ではスマートフォン推進派であるが、

自由の排他的行為と見ると些か恐ろしく感じてしまう

この社会構造の変革に伴い顕在化している自由的概念の乖離を外れ値として捉え直すことが必要であると考える。

イーロン・マスクでさえ身体的かつ精神的に自由を謳歌することは出来ない

なぜなら彼は人間であり気体ではないから

君は世間という固体の中で気体になれるのかい(._.)


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