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すべてを飲み込む「青春」(『みんなの<青春> 思い出語りの50年史』感想)

表題の本を読みました。著者は教育社会学者で、京大准教授の石岡学先生。

「青春」という言葉は人を否応なく惹きつける

本書における著者の問題意識は、下記のようにまとめられていました。

・青春のイメージはコンテンツとして消費され、さまざまなメディアを通じて過剰に価値づけられ意味付けられている。
・それを参照点にして、それぞれが自身の青春を評価している。そしてその評価が、現実の人生に少なからず影響を与えている。

20項

ざっくりいうと
①日本社会において、なぜこんなにも「青春イメージ」が跋扈を振るっているのか
②なぜこんなにも私たちは「青春」について語りたくなるのか、その語りの意味は

という問いが著者の引っかかりであり、それを70年代から現代までのそれぞれの時代の「青春言説」を紐解きながら解明するのが、この本の筋でした。


1.僕の青春理解(ゼロ年代からテン年代)

僕ぐらいの年齢(20代後半)の陰キャにとって、「青春とは何か」とか「キラキラした青春/灰色の青春」とか、青春に関する言説は、学園ライトノベルの影響を否応なく受けているような気がします。
僕の場合は特に、『やはり俺の青春ラブコメは間違えている』であったり、『氷菓』であったり、入間人間の著作(『ぼっちーズ』など)でした。

それは、「青春っぽい青春」に対するアンチ言説として受容することができる「青春コンテンツ」であり、ひねくれた陰キャの実存に言葉を与えてくれていたのでしょう。ゼロ年代後半からテン年代にかけてのある種の〈文化〉として。

仮に失敗することが青春の証であるのなら、友達作りに失敗した人間もまた青春ど真ん中でなければおかしいではないか。しかし、彼らはそれを認めないだろう。
なんのことはない。すべて彼らのご都合主義でしかない。
なら、それは欺瞞だろう。嘘も欺瞞も秘密も詐術も糾弾されるべきものだ。
彼らは悪だ。
ということは、逆説的に青春を謳歌していない者のほうが正しく真の正義である。
結論を言おう。
リア充爆発しろ。

『やはり俺の青春ラブコメは間違えている』1巻の有名な一節
ただし、この言明自体が「主流文化に対する抵抗」「潔白性」という点で正しく青春的である
(この言明自体が「ベタ」というよりは「アイロニカル」であることを差し引いても)

やらなくてもいいことならやらない。やらなければいけないことは手短に

『氷菓』の主人公折木奉太郎の人生のモットー
「省エネ」「灰色の青春」を嘯く折木は、しかし今から見直すと「眩しい」
「青春ぽくない青春」こそが「リアルな青春」であり、それは尊いものだなぁ

「最初に会った日、森川は言ったよな。友達のいる連中が朝で、俺たちが夜のオセロだって。…でもさ、それって朝の連中は行く手に夜しかなくて、俺達には朝が待っているってことだろ。希望にあふれているのは俺たちの方なんだよ」
「…ポジティブシンキングしろと?」
「そう。夜が来ることも、朝を迎えることも両方楽しめるやつになるのが俺の目標だよ」

『ぼっちーズ』175項
夜の大学のベンチでオセロをすることになった「ぼっち」二人の会話
彼らは友達がおらず大学生活から疎外されているが、この瞬間における青春性が描かれている。
特に好きな場面だ。

上記の作品は「青春物語(ナラティブ)」であると同時に「青春言説(ディスコース)」でもあることに特徴があったような気がします。
つまり「青春」や「学生時代」といったものに対する自己言及が作品の中で主要な位置を占めているということです。
ナラティブが不可避なことに「既存の青春」に回収されそうになることに対して、「アンチ青春」というディスコースが対抗言説として「作品独自の青春性」を担保しているというか。


ただ『みんなの<青春> 思い出語りの50年史』の中で
・ゼロ年代は「等身大の青春が数多く描かれた〈NEO青春もの〉の時代」
・テン年代は「少女漫画原作の恋愛映画が数多く作られた〈キラキラ青春映画〉の時代」
と語られていたので、やはり自分が見ていなかった当時の社会の側面を知れて新鮮だった。
確かに朝井リョウの『桐島部活辞めるってよ』に代表されるいわゆる清涼感のある青春物語や、年中やってる(やってた)学園恋愛映画こそがこの時代の「青春」のメインストリームだったのかもしれない。

2.すべてを飲み込む青春

いわゆる「青春っぽい青春(メインストリームの青春)」に対する対抗言説についても、『みんなの<青春> 思い出語りの50年史』の中でかなりの紙幅を割いて語られていました。

「暗い青春こそが本来的な青春だ」と価値の転倒を呼びかける清水義範であったり、「(成功も挫折もない)中途半端な青春」を物語るみうらじゅんであったり。

ただ結局のところ、「人に話せるような学生時代の具体的エピソードがあれば、『青春っぽい』青春として評価される」(73項)のであれば、青春話として語られた瞬間、それが対抗言説であれ何であれ、「大文字の〈青春〉」を補強する結果になるのが面白い気がします(118-120項参照)
つまり「なんだかんだ言って青春してるじゃん」という横やりです。

青春は資本主義と同じで、自らを否定するものも内に含み発展する怪物的なものなのかもしれません。

つまり以下の図のように書けるのではないでしょうか。

謎図

やはり青春は奥が深い。。。



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