「意味」の使用期限
もったいないから、小学校の頃の机のままである。
もったいないから、服は高校生の時に買ったものを使いまわしている。
もったいないから、本は買わず図書館で借りる。
物はできるだけ買わないようにしている。だって、お金がもったいないから。
もったいないから、大学で得た知識を活かせる仕事がしたい。
もったいないから、自分の得意なことを仕事にしてお金を得たい。
新しいことはできるだけしないようにしています。だって、自分の知識や技術が活かせないのなんてもったいないから。
そんな生活をずっと続けていると、生活に潤いがなくなり、抑うつになってしまいました。
モノや知識、技術を継続利用する際に重要なのは、それに付随する「意味」を不断に更新していくということなのでしょう。そこを失敗した「もったいない」は単なるやせ我慢になり、生活の「縮小再生産」が余儀なくされます。
小学生の時に親に買ってもらった机があるとします。機能的にはまだ使えます。しかし、その机には「親からの期待」や「将来への無限の可能性」、「何かを所有することの原初的なうれしさ」といった、その年代のライフサイクル上のエポックな意味付けがされていたわけで、それは年齢を重ねることで、使用者の実存とずれていきます。なので、「機能」の使用期限は切れていませんが、「意味」の使用期限が切れているわけです。
このまま使い続けることが、特に精神面において非常に危険であることは容易に想像できるでしょう(使用期限が切れたモノを使い続けることで起こる事故の発生。。。)
この場合は、机を「子供時代を思い出させてくれるなつかしさ」といった肯定的な意味づけで上書きすることが必要になるのですが、それは必ずしも皆ができることではありませんし、いつでもできることではありません。モノをメンテナンスするのに技術が必要なように、意味のメンテナンスを行うのも特有の技術やセンスが必要なのです。
「意味」の使用期限切れは、とても危険です。モノを使い続けるのも考えものだなと、最近感じました。捨てることは大事です(過去の断絶)
ただ、機能的にも意味的にも瑞々しさを保ったまま、モノを捨てずに使い続けている人には、敬意を払いたいと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?