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辞世の句vol.02 「織田信長」

「是非に及ばず」明智光秀(あけちみつひで)に裏切られ、本能寺で最期を迎えた。

「是非に及ばず」とは、とやかくいっている場合でない、仕方がないといった意味があり、光秀軍に襲撃されたときに「仕方がない」という意味で発せられたとされています。

ただとやかくいっている場合ではないといった意味も存在することから、「まずは武器を構えろ」といった前を向く姿勢を表していたのではないかといった見解も広がっています。

Copyright 2024. 戦国BANASHI. より


三英傑のひとり・織田信長は1534年(天文3年)、尾張国(現在の愛知県西部)に生まれました。

1551年(天文20年)に父親「織田信秀」(おだのぶひで)が亡くなると家督を継いでいます。

1582年(天正10年)に武田氏に滅ぼした織田信長でしたが、同年、明智光秀の謀反によって、本能寺(現在の京都市中京区)で亡くなりました(本能寺の変)。

「もはやどうしようもない」という諦めの気持ちを表現しているとの説、「良し悪しを論じているときではない、戦うしかない」という前向きな気持ちを表しているとの説、そもそも織田信長はこの言葉を言っていないとの説があり、研究家のなかでも意見が分かれるところです。

最期の本能寺の変で急襲された時の言葉とすると信用性の担保は難しい?

だったら誰が聞いた言葉なのか、手紙でも日記でも残っているわけでもありません。

でも納得してしまうことばであります、きっと急襲された時にはもうどうしようもない気持ちだったのではないでしょうか、時代が戦国の世と言えやはり色んなことが去来したはず、無念であったことは当然だと思います。

「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度(ひとたび)生を得て滅せぬ者のあるべきか」(敦盛の舞)が絶命する前に炎に包まれた屋敷の中で舞ったとのTVドラマを見た記憶もありますが、これは信長公が好きだった舞いのようです、言葉は有名になっていますが・・・。

いずれ信長公のイメージは「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」で短気を現しています。

本当の所はどのような人物であったのでしょうか、色んな史実はありますが
実際に接したことがないので不明ながら豪傑な偉人であったことは確かでは?500年近く前に生まれた人がここまで語り継がれるとは本当に凄いことです。

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