多角的な視点で見るということ
私たち人間は社会性の動物であり、
また、他の動物よりも言語と創造の力に長けているため、
複数の視点を持って思考し行動する生き物だ。
であるから、私たちは、
個の視点
他者の視点
自身の属するコミュニティの中での、自分の視点と、他者の視点
他のコミュニティの中での、ある人の視点と、また別の人の視点
物語の中にしか実在しない人の視点
人以外の動物の視点
植物の視点
モノの視点
などのあらゆる客観視を持って、物事を視ることができる。
私たち人間の社会には、『文化』『ミーム(meme)』の伝達が
行動原理に組み込まれているので、
過去の歴史に思いをはせ、未来を想像するという、
時間的に異なる視点を持つこともできるだろう。
さらには、地上の自分を宇宙から俯瞰で視たり、
宇宙の始まりを客観的に創造したり、
あるいは、「神」の視点にも立つ場合もある。
それぞれの視点で「真理」を探求しようとしたとき、
全てにおいて合理的に整合する答えは果たしてあるだろうか。
5.3項でも述べた通り、善悪は立場によって異なり、
また、絶対的な俯瞰で視た場合に、
物事を善悪に二分することには、全く意味がない。
https://note.com/tem_jin196/n/nb59b862fd2c9
物事は表裏一体であり、全てにおいて相関関係がある。
https://note.com/tem_jin196/n/nf818b09800d4
であるにもかかわらず、
私たち人間は、同時に複数の視点で視る、
あるいは、完全に平等に物事を視ることは
決してできない生き物だ。
世界の中心は、どうしても自分自身であり、
自身に近い社会の方が、外の社会よりも僅かであろうとも重要視される。
遠い国の何千人の死よりも、やはり近くにいる伴侶との死別の方が
悲しみは絶大だ。
ここでの言及は、
決して私たちの思考のあり方を批判しているわけではない。
この感覚は、社会性を持つ私たちにとって至極当然のことであるし、
自身と自身の近隣の社会を仲間と感じて、
自身が属する社会の存続を守ろうとすることが、
その社会の維持と発展に欠かせないのだ。
これが
私たち人間の性(さが)であり、
人間社会の性質であると言える。
しかし、その社会は残念ながら完璧ではない。
複数の個が共存しあう集団であるため、
ある個の善悪と、他の個の善悪と、集団全体としての善悪とに
必ず齟齬(食い違い)が発生する。
ここに、神的なモノや言葉が絡もうものなら、さらに悲劇的だ。
無条件に正しいとされる神的なモノの教えは、
実際には、その社会が守りたい、
または守らせたい道義的・道徳的モラルや、
ルール、教義が組み込まれているわけであるが、
これらは必ず、個の善悪的思想と合致しない領域がある。
このときに、その人が多角的視点で、
いろいろな位置から視ることが出来れば、ナニモノにも陥ることはないが、
神的なモノや特別な他者、特定の社会通念のみの視点しか
信じられない思考のままでは、そこには苦悩の道が待っているだろう。