【漫遊後記】越後の消えた浜に「毒けし売りの娘たち」の幻影を追って
遅ればせながら、去る「小さな旅」の一場面まつわる物語について綴らせて頂きます。
1:序
年度末の狂騒曲が終わろうとしているタイミングで、急遽足を向けることになった新潟の地。かろうじて一泊の猶予を得ることができたので、半ば運転士役というお役目ではありましたが、僅かながらも ” 親父の時間 ” を確保した次第。
思えば、北陸方面へ向かうのは17年ぶりのこと。それ故、訪れたい場所が相応に溜まっていたこともあり、主役(次男坊)の予定に支障をきたさぬ様に、目論見の場所を巡ることにしたのでした。
2:角海浜の今
この1泊2日の旅程にあって、此処だけは自分の目で活写しておきたいと考えていた場所がありました。それが 角海浜 と呼ばれる剣呑とした崖地を背にして広がる砂浜でした。
角海浜(下地図参照)は、新潟県の海岸線に沿って敷設された402号線が大きく迂回している区間にあたる浜辺(撮影場所から大通川放水路にかけての砂浜)に位置しています。
当該道路が不自然に迂回している理由は、古い時代から風波の浸食と山崩れによる影響を著しく受けるエリアであったこと、更には原発の計画(巻原子力発電所:東北電力が昭和46年に計画公表~平成15年に計画撤回)が影響したと推測されます。
※角海浜エリアは、現在も東北電力の管理下(管理小屋有り)にあるため、許可なく侵入することは控えた方がよいでしょう。(かつて敷設されていた舗装道路も浸食により荒廃し、途中のトンネルも閉鎖されている。)
余談になりますが … 。
新々樋曽隧道(山に隧道を掘って大通川放水路に繋がる)の存在もまた、弥彦山系東域の地勢的特長(災害時の弱点)を如実に表していると、実際に周辺を走ってみて感じました。
とかく、新潟県が執ってきた土木事業(新潟県内各河川の分水など)については、溜息が出るほどダイナミック且つハイカロリーであると感じます。こうした土木事業の突出した充実ぶりもまた ” 一人の政治家の獅子奮迅なる働きの結果 ” というものなのでしょう。
2:僕が「角海浜に遺る物語」に辿り着くまで
僕が 角海浜 に興味を持った始点を探ろうとすると、あの東日本大震災が発生した2011年まで遡ることになります。
あれは、震災から3カ月程経った頃でしょうか。
石巻市役所の要請を受けて被災地の調査に入った僕は、とある民家の中で「 越後毒けし 」と書かれた古い紙袋を見つけました。
「 ん?! 越後毒けし? 何これ … 。」
この短い薬名が発する違和感そして謎 … 。それは、薬の行商で知られた越中富山ではなく越後であること、そして毒けしというダイレクトな表書きが放つ異様さにありました。
相応の時代を経ている紙袋であったことから、古の万能薬 ” 熊の胆 ” を想像した途端 …… 我に帰って軌道修正。重責を担った調査の合間だったことを思い出し、とめどなく湧いてくる疑問と好奇心を無理矢理抑えて仕事を続けたわけです。
この ” 好奇心の処理 ” に費やせる時間を持つためには、震災の混沌が癒え始めた2015年の秋になるまで待たねばなりませんでした。
その間、私の身には複数の親族(父の姉2名)の介護が重なり、心身ともに疲労困憊していたのですが、凡そ4年に渡って続いた石巻市の支援業務が完了したことで、僅かながらに余裕が生まれてきた頃合いでもありました。
折しも、石巻市での活動を調査研究資料としてまとめる機会を得た僕は、長期に渡った調査で得た膨大なデータや写真を改めて見直すことになったわけですが、その作業の最中に、件の「 越後毒けし 」を思い出したのです。
そうなれば、相応の知見に辿り着くのは早いと … 。机に座ってGoogle先生に尋ねれば、真贋は別にして数多の情報にぶつかるのですから。
これが30年以上前ならば、地元の図書館に行ってアタリをつけて、それから方々へ(識者や該当地域にある新聞社・図書館等)連絡してみるといった手筈をとることが常だったはず。
その当時と比べれば、合理的であることに間違いはありませんが、探求の道程で得られたであろう匙些末な知見を失っているような感覚もあって、ある種の物足りなさ(有難さ半分 & 喪失感半分)を感じてしまうと … 。
いずれにしても、今となっては、此度の様な平面的な時間と立体的な体験の間にある心の変化を愉しみのひとつに加えて ” 調査探求のひと時 ” を堪能しようと考え直しているところです。
閑話休題。
そんなこんなで、検索を始めると同時に「越後 毒消し売りの女たち」という本の存在を知った僕は、あの謎の紙袋 ” 越後毒けし ” にまつわる物語に、最短距離で迫ることが叶ったというわけです。(勿論、他の資料にも出会いました。)
いやはや、この味気無さよ … 。
とまれ ” 件の紙袋 ” を発見してから「 現地に立つ 」ことを叶えるまでに6,7年を費やしているわけですから … 。まぁ、これも人生の絢かと。とりあえず、興味の種を記憶していた自分を褒めておきましょう。
3:角海浜を望む
そして時は流れ、2023年4月2日 午後15時過ぎ … 。僕と次男坊は、角海浜に近接する浦浜の駐車スペースに到着したのでした。
車窓から、波しぶきを受ける大通川放水路の突堤が見えた途端、目の前に広がる景色そのものが角海浜であることを主張しているように思われ、高揚を抑えられなくなった僕は、カメラを手にして車のドアを開けた … その途端、強烈な海風にドアが持っていかれました。
「おぉ!凄まじい風だ!」と親子で仰天そして破顔。海岸浸食の根源的要因をあからさまに体感した格好になりました。
それは正に、洗礼の一撃だったのかもしれません。がしかし、僕には念願の土地に立った証を押印されたようにも思われてなりませんでした。
そして、砂塵と波煙が湧きたつ角海浜を前に、かつては複数の社寺仏閣や役場、小学校までを備えていた集落の一部が、激しい風波による浸食を受けて海の中に没していったという稀有な事実を反芻しながら、カメラのファインダーを覗き続けたのでした。
4:消えた角海浜に遺る物語
この陸路に乏しい浜辺には、平安期に能登半島から流れてきた人々によって作られたという来歴をもつ 角海浜村 が存在していました。
目の前は波が押し寄せる砂浜、背後には急峻な崖が迫るというロケーションは、それこそ隔絶された場所を好んで拓かれた落人村を想起させますが、実際は違ったようです。
1600年初頭(関ヶ原以降)には、由緒ある社寺が能登方面から移動してきたことによって諸事の拡充が進み、周辺の既存集落よりも栄えていたと記録されているくらいですから、息を潜めて隠れ住んでいたといった感じではないのでしょう。
さりとて、冒頭で記した通り、海岸浸食の影響が著しい地域(集住に適する平地は常に後退を強いられた)であることに加え、地の利の悪さから過疎化が進行し、ついには原発計画の公表を契機に村民が移住を決めたことで、事実上の廃村になってしまったと … 。
※1670年代:約250戸 → 明治36年:87戸 → 昭和44年:9戸
生活基盤を揺るがすような自然環境に、高度経済成長期の陰で静かに進行していった村落の過疎化、そして20世紀以降のエネルギー問題が複合的に絡み合って廃れていくパターンは、全国各地の寒村で見受けられた一事例(限定的ではあるけれど)だと言えるでしょう。
さて、角海浜村が栄えていた時代に話を戻します。
この村には摩訶不思議な特長がありました。それは、陸の孤島的かつ農業に適した平地が少ない立地であるにもかかわらず、経済的に困窮していなかったという事実(村には蔵をもつ家が多く存在)と、浜辺に立地していながら漁業に従事した村民がいなかったという点が挙げられます。
では、どうやって彼らは現金収入を得ていたのでしょうか?
この不自然に過ぎる特長を獲得した要因のひとつとして「毒消し売りの女たち」の存在に触れないわけにはいきません。
1600年代初頭に角海浜へ越してきた称名寺によって毒消しの製法が伝えられ、その薬を背負って行商に出る役割(現金化)を担ったのが、村に暮らす婦女子(齢15歳以上)だったのです。
毒消し売りの女たち の活躍は、驚くべきことに昭和40年頃まで続きました(最後の売り子 スガさん:昭和41年没)。前出の製法伝承の時点(1600年初頭)を始まりとすれば、実に350年以上も続いたことになります。
いわば出稼ぎのひとつであった毒消し売りですが、彼女たちの労働によって潤った角海浜村の噂が広まると、近隣の村からも売り子を志願する女性たちが増え、やがては周辺の村々でも ” 現金収入を得られる仕事 ” として認識され、積極的に取り組むようになります。
こうした経緯の中で、彼女たちは自らを組織化し、計画的に販路を広げていったようです。※その過程で「角海の毒けし」から「越後毒けし」に表記が変わっていった。
幾つかの資料を紐解きながら、彼女たちの出稼ぎ・行商の形態を把握していくうちに、曰く難い魅力を感じるようになりました。
彼女たちが歩いた地域は、関東地方のみならず東北にまで及び、複数名で編成されたグループが、決まった地域を毎年訪れていました。また、各地域には、拠点となる定宿(多くは地元農家)があって、毎年同じ家に泊めさせてもらいながら毒消し(日用雑貨も扱っていた)を売って周り、行商を終えて帰ると、積極的に家中の手伝い(女中奉公)をしていたことから、労働力不足の農家にとっては有難い存在になっていたようです。
※僕が石巻市の民家で毒消しを見つけたのも不思議はなかった。
かような形態は、他の行商や出稼ぎの事例でも見受けられますが、宿泊させる側の意識が些か異なっているように思われてなりません。
宿泊を担った農家の人々は、彼女たちの訪れを、まるで風物詩の様に捉えており、労働力として認識していただけではなく、北陸出身の色白の婦女子たち(一説には美人が多かったとも)を泊めているという優越感をも感じていた節があるのです。
こうした様相は、遊行の芸能者 瞽女(新潟県高田市が有名)にも通じるところがありますね。※行商ではなく門付けですが。
合わせのチャンチャンを羽織り、脚絆甲掛けと白い前掛けを付け、雑貨や毒消し薬の入った葛籠を背負い、一列に連なって歩いてくる彼女たちの姿は、さぞかし可憐で健気に見えたことでしょう。
そして、薄暗い藁ぶきの家の中で、他所から来た女性達がにぎにぎしく動き回る姿を目にし、彼女たちが喋る声を耳にするだけでも、抑揚の少ない農家の日常とは違った彩を感じたであろうことは想像似難くありません。
5:表舞台に出てしまった毒消し売り
そんな毒消し売りの女性達も、時の流れと共に、様々な変化を強いられていくわけですが、昭和28年を迎える頃には、想像だにしなかった出来事が起きるのです。
それは、宮城マリコ(歌手・女優・ねむの木学園の園長)が歌う「 毒消しゃいらんかね 」という流行歌によってもたらされました。
この流行歌(ロングヒット)によって、彼女たちの存在が広く知られることになったわけですが、その反面、行商先では ” 毒消しゃいらんかね ” を歌うようにせがまれて閉口したようです。
娯楽の少ない当時の農村部では、毒消しを売りに来た彼女たちに、佐渡おけさや米山甚句などを所望する村民も多く、そうした芸を披露すること自体に抵抗はなかった(売上アップ)と思われますが、買う度に歌わされるとあらば往生するでしょうね。
昭和43年生まれの僕には、この当時の熱狂を知る由もありませんが、昭和28年という時代(NHKが東京でTV放送開始・衆議院バカヤロー解散・ヒラリー&テンジンがエベレスト初登頂 等々)を鑑みると、市井の人々 … 特には地方の農村域に暮らす人々の心の有様が浮かび上がってくるようで、何かしら可笑しみを感じさせてくれる歴史の一頁として捉えています。
6:毒消し売りの女たちが放つ魅力
さて、そろそろ筆を置くことにしましょう。
角田浜(角海浜の北に隣接)を訪れた、かの無頼派 坂口安吾 も随筆の中で越後の毒消し売りについて触れています。
この ” 男の感情に混沌をもたらす一文 ” を咀嚼するうちに、己が「無能なお大尽」と同じ属性だということに気付いてしまった僕は …… 否!それは彼女たちが紡いだ物語に触れていく過程で、そこはかとなく認識し始めていた事実でもありました。※いわゆる「 身に覚えアリ 」という奴ですね。
角海浜村と毒消し売りの栄枯盛衰を想う時、人の世の移ろいやすさや儚さを感じる以上に、名も無き婦女子たちの営みに心を奪われるのです。
それは、能動であるか受動であるかを問わず、ある種の観念と責任と労働に裏付けされた慈愛に満ちた強かさに魅了されたからに違いありません。
1泊2日の小さな旅でしたが、角海浜 を望む場所に立ち、当時と変わらないであろう潮風と砂と空気に触れることができて本当に良かったと感じています。自身の中で準備していた平面的な想像が、より立体的になったことで新たな発見もありました。今後とも、こうした五感を刺激する機会を少しづつ増やしていきたいと考えています。
長文駄文にお付き合い頂き、有難うございました。