【遺す物語】親指小仏観音立像 / 親父の独り語り 中編
§ 息子達へ
この観音様を彫刻している間、穏やかな五月晴れが続いていたことを伝えておこう。君たちの親父は、アトリエの入口から淡く差し込んでくる陽光を浴びながら、心静かに手を動かし続けることができたのである。
こうした製作過程に低音しているであろう無形の存在もまた、完成した観音様から発露することを願うばかりだ。
観音様の荒彫りを終えると、台座の役割も兼ねる木蓋の製作に入った。
勿論、別な部位から木取りして拵えるような無粋なことはしない。予てから、観音様を彫る材料を縦引きして蓋になる部材を用意していたから、蓋を閉じれば正しく一塊の木となる。がしかし、それは適切に加工できた場合に限るのだが・・・。
正直に告白する。
君たちの親父は、鼻から上手に加工できる自信が無かったことを。
元より、際鉋の様な気の利いた道具も無かったし、自分の頭の中でイメージされた形状に加工する技量も無いときたものだから、全ての道程にあって、この蓋を作るという工程が一番のハードルになっていたのだ。
でも、親父は試みることにした。
それは、古の先達が示してくれた姿勢「今ある道具と技量を頼りに取り組むこと」を踏襲するためであり、且つ、去る記事でも綴っていたように「この観音様には失敗がない」と自ら定めたからでもある。
そんなこんなの七転八倒と試行錯誤を経て蓋は完成した。
自分で稼ぐようになってからというもの、利便に富んだ道具を使うことが常となり、要領良く作業することばかりに気を取られていた私だが、この「さもない木蓋」の造作を通じて「時間を掛けて注力すれば、大抵の事柄は出来る」という真っ当な感覚を取り戻すことができた。
あらゆる不足と不都合は、自らの創造力と忍耐力を醸成させながら、知恵や技術向上に結び付けてくれる側面を持っているということだ。もし、君たちが何かを生み出す時に行き詰まりを感じたなら、長らく享受してきた利便と合理を一旦手放してみるのもよかろう。
そう、恐れずに。
閑話休題。
この素朴な一木造の観音様は、親父の「始末の作法」を具現化したものであるから、華美な装飾は馴染まないと考えた。
しかし、この「一塊の木」に何らかの印を仕込む必要を感じた私は、蓋を作り終えて暫くの間、逡巡を続けることになったのである。
当然のことながら、この観音様の無名性を損なわせるような印は好まない。よって、「印として何が相応しいのか?」と考えた末に、我が私淑とする先達に習うことにした。
それが、梵字である。
では、この梵字を如何様に設えるのか?
長らく「木」を相手にしてきた手仕事人としては、ただ筆で書いて終わりというわけにはいかなかった。そこで数少ない引き出しの中から象嵌という技法を選択したのだ。そして、思案の末に選んだ梵字の一字を、手持ちの紫檀材で作った薄板から切り出すことにしたのである。
こうして着々と準備を整えていくと、さも完成に近づいているような感覚に陥ったり、安直な充実を感じてしまうことも少なくない。しかし、この象嵌に際しては、かような感情が湧くことは無く、むしろ緊張状態が続いた。それはやはり、自信があって象嵌という技法を選んだわけではないからだ。
ここまで読み進めれば気付くであろう。
君たちの親父は、何事も自信が無いところから始めている「普通の人」なのである。そんな普通の人でさえ、身の丈を少し超えるような経験を積み重ねていくことで、何とかここまで生き永らえてきたのだから「人の世は生き辛くとも人生は面白い」のである。
因みに、この梵字の意味を本稿に遺すことはしない。
ただ、この観音様に関わりがあることは勿論、お前たちに向けた親父からの伝言だということは容易に推測できるはずだ。
調べたければ調べればよかろう。されど、親父としては、そんな些末な事に検索の時間を割くのであれば、娑婆での実地を優先して欲しい。(梵字なんぞ、年嵩が増していよいよ暇になった時にでも調べればよいのだから。)
物事の上辺だけなら容易に検索できる昨今なればこそ「不明瞭さ」を抱え続けるのも一興だろう。それは考え続けることに繋がるからでもある。
そもそも、生きた知識を会得するには旬というものがある。
即時解決も結構だが、頂きに続く雪稜を慎重かつ大胆に登攀するかの如く知識や言葉を探していくことも悪くない。顕示欲にまかせた「知識比べのための知識」ではなく、内なる動機を適切に発動させ、体に染み渡らせるように知識を得ていくことを強く望む。
そうして獲得した知識が、実地を経ることで知恵に繋がっていけば、それをこそが「君たちにとっての幸い」だと言えるのではなかろうか。
贅言が過ぎたようだ。話を戻そう。
何はともあれ、木象嵌は相変わらず手厳しかった。
「この観音様には失敗が無い」と心に決めていたにもかかわらず、時間を要して仕上げた木蓋に初太刀を入れる時は緊張した。
紫檀の薄板から切り抜いた梵字を、加工した蓋の上面に仕込むだけの話なのだが、心のどこかに「失敗したら嫌だ」という気持ちが根強く残っていたからなのか、腹を括るまでに時間を要してしまった。
この様に、親父もまた修養が不足している人間の一人なのだ。それが為に、私淑とする先達が「精神的な支柱」を担ってくれている。
この「親指小仏観音立像」は、円空仏や木喰仏と呼ばれる素朴かつ特徴的な仏像の外観を模写することを主眼にしてはいない。あくまでも、この行為は、旅の空に簡素な材料と道具を以て仏像を彫った先達の心の有様を、親父なりに咀嚼しながら辿ろうという「ささやかな試み」なのである。
だからこそ、心が折れることなく取り組めているのだろう。
君たちの親父は、目下、そんな心持ちで刃を振るっている。
製作工程は、これから佳境「観音様の仕上げ彫り」を迎える。
されば、これまで以上に彫刻刀の刃先を研ぎ澄ませて臨む所存。
仕上げ彫りによって一皮むけた親指小仏観音立像は、名実ともに親指の大きさとなり、小仏の小仏たる部分も明確になるはずだ。
これまでの道程と裏話
※時系列的に新しい順にリンク。
蛇足ながら、裏話を遺しておく。
厚みのある材料の底深い部位に観音様を彫り込む・・・そんな方針を決めた段階で、一般的な彫刻刀や愛用の左刃だけでは対応できないと感じた私は、作業状況を予測しながら珍妙な左刃を複数製作したのだが、実用に耐えたのは3本しかなかった。それも、実地の最中に調整を繰り返してようやく使えるようにしたというのが真相である。
試みとしては概ね失敗であったと捉えているけれど、学びと反省の均衡だけは保てたように思う。即ち、無駄ではなかったということだ。
とかく、人生はそんなことの繰り返しではなかろうか・・・君たちの親父は、そんな風に感じている。
とにもかくにも、何事もめげずに取り組みなさい。