【漫遊後記】冬の渋民村にて
いつの間にか春が通り過ぎて行ってしまったような気がしている今日この頃。初夏のような陽射しに体が驚いています。
そんな時節に冬の話題は遅きに失するのかもしれませんが、今冬1〜3月にかけて足を運んでいた盛岡市の出張旅(隙間時間の寄り道)の断片を、数回に分けて備忘させて頂こうと思います。
お時間の許す方は、どうぞお付き合いください。
去る2月のこと。
スケジュールの合間に生れた隙間時間を使って、どこか立ち寄れるところはないかと思案したところ、頭に浮かんできたのが渋民村でした。これまでも幾度となく訪れた場所ですが、雪の岩手山を鶴飼橋の上から愛でるのも悪くないと考えたわけです。
が・・・そんな良案を思いついた己の酔狂を褒めようと思った瞬間、頭上に広がる曇天を見上げて苦笑い。これでは、彼の岩手富士を目にすることは叶うまいと諦めるしかありません。けれども、手持ち時間と距離の塩梅が好ましかったので向かうことにしたのでした。
賢明なる読者の皆様であれば、「渋民村」と「鶴飼橋」というキーワードから「石川啄木」を連想されることと思います。
渋民村は、南北に長く広大な面積を誇る岩手県にあって、東西を北上高地と奥羽山脈に挟まれている北上盆地の北部に位置しています。それ故、地勢的には相当過酷な地域であったと言えるでしょう。
かような土地柄がそうさせるのか、私は「しぶたみむら」という響きの中に、岩手県内陸部の原風景を見い出そうとしてしまうのです。これもまた、彼の地の開拓史や飢饉の歴史、そして啄木にまつわる物語が相まって構築された感傷なのかもしれません。
さて、話を「鶴飼橋の寄り道」に戻しましょう。
この日は曇天でしたが、暖冬の影響もあって北東北ならではの凍てつく寒さではありませんでした。けれども、いざ橋の方へ降りていくと気温は急転直下。それはそうです、川通しに吹き荒む風と凍てつく岸辺から上がってくる冷気で、鶴飼橋の袂は「いつもの岩手の冬」になっていました。
寒さに硬くなった身をほぐすべく、現代の堅牢な吊り橋を幾度か往復しながら北上川の流れを愛でました。北上川は、宮城県石巻市に河口(追波川)を持つ一級河川(流路延長は250㎞に迫る)です。
この日は、数日前の好天の影響なのか、雪代が淡く入っているような水色を湛えており、私の中に記憶されている「厳冬の北上川」の趣とは大きく異なっていました。
啄木が鉄道に乗って余所に出かける時に渡ったとされる鶴飼橋。当時の最寄りが好摩駅(IGRいわて銀河鉄道)であったことから、この橋を渡って後に4㎞近く歩かなければなりませんでした。
若き日の啄木は、どんなことを考えながら吊り橋を渡り、そして外界への入口とも言える好摩駅へ歩みを進めて行ったのでしょうか。
そんな事を考えながら鶴飼橋の真ん中で一捻り。
北上川の氾濫対策として吊り橋形式が採用された鶴飼橋は、築造の場所を変えてなお、今も現役の橋として役割を全うしています。そして啄木の歌もまた、年月という公明正大にして残酷な試練を耐え抜き、多くの人々に語り継がれていることを思うと、胸がぐっと熱くなるのです。
「鶴は千年 歌は万年」
そんな他愛もない言葉が頭に浮かんできたのを潮に、啄木が育った町を離れることにしたのでした。