見出し画像

昔の愛煙党と今の嫌煙党が似てるとこ

昔、といってもそんなに昔じゃないんですが、ともかくちょっと前までは喫煙家がえばっていまして、何をされても非喫煙者は文句が言えなかった時代がありやした。電車などの閉じられた空間でも平気でスパスパやったから、タバコの煙が苦手だったうちの母などは気分が悪くなって困ったそうで、それでも何も言えなかった。私の通った小学校の先生たちも、教室に灰皿をおいて、スパスパやってましたのを覚えてます。
 
「えばっている」と言いましても、吸ってる当人たちはえばってるという自覚がない。みんなそれが当り前だと思っていたから、抗議する少数の人たちがよほど偏屈で自分勝手な人たちに見えたんですな。「なんだあいつらは、つまらんことで人の自由を奪おうとしやがって」とでも思ってたんでしょうな。
 
紙巻きたばこを吸う習慣ももう一般化、大衆化してますが、タバコだって必需品というよりは嗜好品です。言ってみれば贅沢な趣味です。資力か趣味かどちらかがなければ、あえて始めません。もとはどちらかというと洋服を着て鼻の下に髭を生やした上流階級が持ち込んだものでして、吸う方が吸わないよりポリチカリー・コレクトとまでは言わなくても、モダンで洗練された感じがした。かつては舶来品であったキセルが年寄くさくなりまして、紙巻きたばことか葉巻の方に若々しい舶来文化の香りがしたわけでございます。
 
これが一般に普及して、「つきあい文化」、「共通文化」としての大衆文化の一部ともなったわけでござんすが、上流階級以上に男が女よりも盛んにスパスパやったもんだから、男らしい習慣とも見なされるようにもなった。加えて、目上の人の前でも喫煙することが、自由と平等というデモクラチックな価値を象徴する行為にもなった。まあ、今となっては迷惑な話でござんすが、女子どもといっしょにされないための通過儀礼みたいなところもあって、世間からバカにされないためには、煙突みたいに鼻から煙くらいは吐いとかないとならない。それも財力とか男らしさとかを見せびらかすためなんですな。
 
ちなみに私の家は父方も母方もタバコを吸う人が少ない家系でして、ざっと見わたしても喫煙者は自分ひとりです。酒もあまり飲まない。母方の家では誰も吸わないので、戦時中は配給のタバコが余る。昔はちょっと大きな家にはちょっとした客のための部屋があって、夏でも囲炉裏にお湯が沸かしてあって、いつでも茶が淹れられるようになっていた。そこにこの配給のタバコも置いてあったもんだから、それを目当てに用事もない近所のタバコのみたちがやってきては、一服していく。

母方の祖父の生家は農家で、タバコを栽培していたのですが、家ではやはり誰一人として吸わなかった。栽培したタバコはすべて専売公社に売り渡されるわけだから、吸うためには金を払って買わないとならない。堅実な農家はなるべく現金の出費を抑える伝統がありますから、タバコはあくまでも他人のためのに作っておったようです。

喫煙者が少ないのはおそらく信仰が関係してますし、多くは学校の先生や学者みたいな文化資本の多い人びとですから、この「つきあい文化」を身につける必要がなかったようなんです。むしろ、吸わないことで下層階級や経済資本の多い上流階級との区別をはっきりさせた。例外はおそらく父方の祖父のようですが、よく覚えてません。しかし、彼はビジネスの世界のひとでしたから、やはり麻雀や女遊びなどといっしょに喫煙も習慣になっても不思議ではない。

あと、祖母もやはり愛煙家であった気もするのですが、こちらも自分の記憶がはっきりしません。祖母は牧師の娘で、英語で教育を受けてる。赤旗新聞なんかを購読してた教養階級です。あまりタバコと縁がありそうにない。だけども大正デモクラシーの空気を吸って育ってますから、モガ(モダン・ガール)的な一面もあって、もし吸っていたとすると、当時の「女らしさ」というものに抵抗するために、あえて鼻から煙をはいて見せたんではないかと想像できます。
 
周囲には誰も喫煙者がいない私がタバコを覚えたのは、学生時代に建設現場でアルバイトをしてるときです。つまり労働者階級に身をやつしていたときです。現場には10時と3時の休憩時間が労働者の権利としてありまして、どんなに忙しくてもそれを守らないと、反乱に到らなくとも不服従運動が起こる。私が働いていたところではそれを「一服」と呼んでいました。タバコの一服ですね。買ってきた甘い缶コーヒー片手に、みんなで白い煙を鼻から吹きだす儀式みたいのがある。現場で働いてるいろいろな職人さんや会社の人とのコミュニケーションの機会が得られるのも、この「一服」の時間です(といっても若造ですから、じっと聞いてることが多いんですが)。別に吸うのを強制されるわけじゃないんですが、自然と吸うようになりました。
 
今の世は一種の下克上が起りまして、非喫煙者がえらくなりました。立場が入れ替わりまして、喫煙者は何をされても我慢するしかない。人がせっかくソーシャル・ディスタンスをとっているのに、向こうからわざわざ近寄ってきといて、顔をしかめて見せたり、布切れで鼻を蔽ってみたり、わざとらしく咳払いして見せる。まあ、通りを歩いてると肩からぶつかってくるような輩で、そういう意地悪なひとが結構世の中にはいるもんなんでございます。

顔の見えないネットなんかでは、まったく知らない人から聞くに堪えない罵詈雑言を投げつけられる。意識が低い(≒大衆的)なんていう階級差別はまだいい方で、理性がないとか、歩く病原菌とか、国どころか人類共同体から出てけという障がい者差別に近い発言まで平気でとび出してきます。こんなのに、昨日まではあれだけえばっていた愛煙家たちが、平身低頭で堪え忍ばないとならない。まあ、世の中というのは、あれよあれよと言ってる間に、そんな風に変わってしまうもんなんですな。
 
だけども、タバコを吸うか吸わないかという違いがあっても、昔の愛煙家と今日の嫌煙家はよく似てるところもあります。だから、ひょっとするとこの変化も表面的なものなのかも知れんのです。ほら、車の運転をすると人格が変わる、なんてよく言われたじゃありませんか。ごくごくおとなしい人が、車に乗った途端に攻撃的になる。車の力を自由に操れるから、自分自身が強くなったような気になる。人間は強くなるとひとが変わるんですねえ。

ここから先は

1,410字

¥ 300

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。