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ネコのいる天国

先日、うちの実家のにゃんこ様が天に昇られた。実家に残った最後のネコで、2年前の猛暑の夏にいちど死にかけた。昨年は冷夏であったからもったが、今年は夏越えはむずかしそうだなと思っていた。アイスノンなんか買ってきて冷やしてやっていたが、とうとう暑くなり過ぎた地上に愛想をつかせられたかたちだ。
 
実家には、自分が生まれたときにすでにネコがいた。結婚式の翌日に自分の実家にあいさつに行くと家を出た父が、さっそく子ネコをもらって帰ってきて、母を驚かした。以来、ネコを切らしたことがないと思う。
 
別に意図して飼おうと思ってるわけでもないんだが、ヒトもネコもネコ好きの家をかぎ分ける。うちでは飼えないからと頼まれたり、門の前に子ネコが箱に入れられてにゃーにゃー鳴いていたり、ネコが勝手に入りこんで住みついたり、一度などは三軒向こうのお隣さんの家の飼い猫が、自分の家が嫌になって勝手に引っ越してきた。そんなこんなで、一時は10匹以上に増えて猫屋敷みたいになったこともある。通算で何匹くらい飼ったことになるのか、ちょっとすぐには思い出せない。
 
数が多いだけじゃなくて、よほどネコには生きやすい環境らしくて、うちに来たネコはみんな長生きする。たいして大事にしてるわけでもないんだが、メス猫はほぼみんな20年生きて天寿を全うした(オスは素行が悪い奴が多くて、そんなに長生きしない)。餌がよくなった今日ではめずらしくもなくなったが、残りご飯に煮干しとか味噌汁かけて食わせてた当時は、まだ二十歳のネコなんてそうたくさんはいない。獣医さんに連れていくと驚かれたものだった。こたび昇天なされたネコ様も、享年22歳であった。
 
そんなであるから、飼いネコに先立たれるのには慣れているんだが、それでもやはり悲しい。今まではふつうにそこにおったものが今日はもういない。毎朝起きるたびに、それを思い出さされる。そうでなくたって、自分の慣れ親しんだ世界が、櫛の歯が欠けるようにぽろぽろと崩れていってる。若いときであればすぐに埋まったであろうその穴が埋まらずに、いつまでも残っている。そういう悲哀をいっそう強く感じさせられる。
 
それで、「あいつはどこへ行ったかな」「いまごろ涼しいところで親兄弟たちといっしょにいるかな」などという言葉が、自然と(?)口に出てくる。霊魂の不滅とか死後の世界とかいっさい信じてないような人間なのに、まんざら口先だけでもない。そうであって欲しいと心のどこかで思ってる。
 
そこでやめときゃいいんだが、暇に飽かして、ネコの天国などというものを想像しはじめると、もういけない。「天国にはネコもいるのだろうかな」とか「ネコにも救われる魂があるのか」などという疑問が、次々とわいてくる。当然いるだろう、犬だって、馬だって、ウサギだって、モモンガだって救われてしかるべきだろう。そう思いたいのだが、そうすると犬猫といっしょにノミもいることになってしまいそうである。ノミがいるならコロナ・ウィルスだっているかもしれない。それでは、ちと都合が悪い。

じゃあ、天国は人間の魂だけの場所なのか。動物の天国は別にあるのか。それとも動物には死後の世界がないのか。それとも人間中心にできていて、ヒトにとっての害獣・害虫みたいのだけはいないのか。でも、ネコ嫌いの人にとってはネコも害獣であって、そんなのにうろつかれたら天国でも至福に浸れないんではないか。
 
さらに、そもそも天国では、ヒトとかネコとかいう区別があるのか。天国にいる人間はどういう姿格好してるのか。死んだときの姿かたちなら、じいさん、ばあさんがやけに多くなる。それとも、人生でいちばん美しかったときの姿でいるのか。でも、それじゃ、親も子も見分けがつかないんじゃないか。それとも、魂とよばれるような、なにかふわふわした存在になってるのか。
 
だがまた、そもそも天国では、過去の自分の記憶が保たれるのか。自分が誰の親であり子であり飼い猫であったかを覚えているのか。そんなことを覚えていたら、残してきた人々のことが心配のタネになって、とても至福になど浸ってられないんじゃないか。それともそんなことをすべて忘れて、楽しく暮らしてるいるんだろうか。あるいは、忘れずにいても至福を邪魔されないんだろうか。それはそれで、また薄情じゃないか。

(ちなみに、お借りしたヘッダー画像は、「100歳になっても抱っこしてね」という小さな子どもの希望に応えてお母さんが描いたもの。130歳のお母さんが100歳の息子を抱っこしてる。)
 
自分にかぎらず、世の中にはそういう「そもそも」を突きつめて考えていく奴がいるらしくて、実在しない世界を想像するだけでは気がすまない。それが真に存在するとすればどのように存在しないとならないか。そんなことを考え始める。こうであればありうるというような確実性をえようとする。時空を超えた別世界の創作にたずさわったひとなら分かると思うが、想像された世界の現実性みたいなことにこだわりはじめる。
 
そうなると、想像された世界でも、いろいろとつじつまを合わせないとならなくなる。「想像なんだから、そんなことどうでもいいじゃん」と言えなくなる。そうやって、論理的に一貫性をもった天国の理論みたいなものができ上がってくる。
 
もとはこの世で満たされない願望を投射した具体的なイメージであったようなものが、そうやってだんだんと抽象的で分かりにくいものになっていく。ついにはイメージさえ思い浮かばなくなる。そうなると、今度は逆説的に、天国の魅力が薄れてくる。信仰を支えた願望が教義に形をかえて、かえって願望自体を押しつぶすことにもなる。
 
だから、おそらく民衆はなんらかの天国の具体的なイメージに固執しつづけた。川に乳や蜜や葡萄酒が無尽蔵に流れてて、汲めども汲めども尽きない。そこで男たちは、美しい娘たちに囲まれて毎日酒飲んで寝てればよい。コーランではこんな風に天国が描写されてるらしいが、イスラム圏外でも農民のユートピアは似たようなものだった。

粉チーズで出来し山、
平原に見えし唯一のもの、これなり。
頂上には大鍋ひとつ置かれ……
険しき峡谷より乳の流れは発し、
そはこの国全土を流る。
家々の囲いは白チーズにて作られり。
この地の王の名はブガロッソ、
最も臆病者なりしがゆえに王にされり。
最大の石臼のごとく、大きくかつ肥え、
その尻より、パンはあふれ出、
口から吐き出すはアーモンド菓子、
虱のかわりに、頭には魚どもたかれり。

十六世紀にイタリアで出版された『大洋のなかで見出された新世界の存在、またそのすばらしき事物についての詳細に語れる書』。カルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』(杉山光信訳)より

これは天国ではなくて地上の楽園の話(ユートピア)であるが、キリスト教の神学者たちによってしばしば揶揄されたコーランにおける天国の描写の方が、理屈っぽくてなんだかよくわからないスコラ哲学よりも、キリスト教徒の農民にもずっと身近に感じたにちがいない。モノが豊かであるだけでなく、社会制度がちがう。性的放縦が許されていて、自由である。

この地にてはスカートもズボンも要らず、
なんどきもシャツも下穿きも要なし、
少女、少年も、みな裸なり。
いずれの季節も、暑からず、寒からず、
欲する時に各人は会し、触れるなり。
すばらしき生活よ、すばらしき時よ……、
この地にては子供の多きに悔むことなし、
この育つはわれらがもとと同じなりしが、
雨降るときは麵類の雨なるが故なり、
わが娘を娶ることなど意に介さざりしが
娘らはすべて皆のものの娘なるが故なり。
各人は各々の欲するところに満足せり。

同上

コーランでの天国の描写との親近性は明らかだ。ここでは衣食住の心配はいらない。美しい娘たちが共有されているから、パートナーを獲る苦労もない。子どもは生れるが、勝手に育つから放っておいてもいい。果たしてこの娘たちは、乳や蜜の川同様に天国の一部であるのか、それとも地上でのつとめを終えたあとで天上でも奉仕を強いられている女の霊魂であるのか。そういう疑問が生じるが、そんなうるさいことをいうと、また天国が抽象的になる。そんな理屈は坊主連中に任せといて、男には天国はこう見えるが、女にはまた別のように見えるとでもしとけ。そういう勢いでないと信じられない天国観である。
 
しかし、そういう天国であるならば、ネコが死に分かれた親兄弟とともに涼んでおっても、ぜんぜん構わない。そして、そこで自分がやってくるの待っている。そうなれば、もう自分には疎遠でよそよそしくなりつつある現世を嘆いて、悲歎に暮れる理由などない。この世が穴だらけになる分、あの世がどんどんと充実しておる。
 
ひとつ不思議なのは、坊さん連中の話でもわれわれの想像でも、天国よりも地獄の方がより具体的にイメージされてる。ダンテの『神曲』でもいちばん評判がいいのは「地獄篇」で、天に近くなるにつれてつまらなくなる。なぜなのか。
 
苦しみのイメージは過去の経験からとってこれる。至福の状態はまだだれも経験したことがない。だけど、地獄が未来永劫続く苦しみであるなら、至福は未来永劫続く幸福にすぎないのではないか。幸福な瞬間を経験した者なら誰でも、それが永久に持続する状態を想像してみれば天国になるはずだ。
 
ところが、未来永劫続く幸福というのがぼくらには想像しがたい。というのは、ぼくらの経験する幸福は、どれも長いこと続かない。仮に望んでいたものを獲られたとしても、その途端にそれがつまらないものになって、また別の「まだないもの」を物色するようになる。であるから、隣の芝が永遠に青いし、至福は永遠に遠ざかっていくゴールポストのようなものである。
 
だから、ぼくらが究極に望むものは、つねに、いつまでも、まだここにない。「まだないもの」は経験も観察もできない。それは想像するしかない。だが想像も無からは出発できない。その材料は過去からしかとってこれない。乳や蜜や葡萄酒でできた川。自分の自由にできる美しい娘たち。勝手に育つ子どもたち。そうした具体的なイメージでもって、「まだないもの」が表象されている。
 
われらの心は天国やユートピアを求める。今は実現されえない願望が実現される時・場所がどこかになければならない。そうでなければ、苦しみで満たされた人生を絶望せずに全うすることなど、とてもできそうもない。そう感じる。

だが、その夢に現実性をあたえようとするあまりに、われらの理性はそれを心に響かないものにしてしまう。社会分業においてこの理性の行使に特化した神官たちが、民衆の夢をぶち壊しにしてしまう。それでふたたび神官階級から天国が奪回されねばならなくなる。詩的な想像力が理性から解放されなければならなくなる。
 
だが、あまりに自由奔放な想像力に任せていると、現実性が失われていく。天国もまた嘘くさくなって、誰もまともに相手にしなくなる。もう一度理性の力によって、「まだないけどありうべき現実」みたいなものをとり戻さないとならなくなる。
 
広い意味では、マルクス主義のような社会思想も、このユートピアの現実性の弁証法的過程の延長線上にある。空想的(ユートピアン)社会主義に対する科学的社会主義として、想像力を統制する理性の力として自分を売り込んだ。マルクス自身はユートピアたる共産社会については多くを語らなかったが、このマルクス主義内でもまたユートピア性と現実性の駆け引きがある。

どうやら現実(過去したもの)と希望(未来するもの)の対立を現在において媒介しようとするときに、必然的に人は立ち止まって考えざるをえない。そもそも(「そもそも」!)ぼくらが「思想」と呼んでありがたがっているものが、そういう媒介過程から零れ落ちた結晶の破片ではないかと思う。

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。