
福祉国家=怠け者にやさしく働き者に厳しい国?
保守の福祉国家批判
さて、先週からの続きであります。手短に復習すると、石破首相の施政方針演説で言及された「楽しい国」、「すべての人が安心と安全を感じ、自分の夢に挑戦し、『今日より明日はよくなる』と実感できる。多様な価値観を持つ一人一人が、互いに尊重し合い、自己実現を図っていける。そうした活力ある国家」というものの背後に、プロテスタントのクリスチャンとしての石破さんを見たという話でした。冒頭の「すてべの人が安心と安全を感じ」というところはどちらかというと保守層に配慮したものでしょうが、それ自体が目的ではなく、後半部分の理想的目的を実現する手段として配置されてることに注意すべきであります。
ということは、現首相にとっては、いろいろな考え方をもつ人々が、互いの価値観を尊重しつつ、自己実現を図っていくような国が「楽しい」わけであります。それにしたって、「楽しい国」という標語は、今の日本にとってはちょっと場違いな感じがする。なんとなれば、このままではどうしたって楽しくなれないようなひとびとが大量に生み出されている。それをどうするのか考えて必要な措置をとるのが政府の仕事であって、みんなが聞きたいのはそこの部分である。首相個人の持論とか哲学みたいのはどうでもよろしい。保守系の新聞などからそういう批判が投げ掛けられている。
これだけであるならば、首相 と批判者たちのあいだの溝はそれほど深くありません。どちらも目的自体は共有しています。「目的は結構だけど、手段をもっと具体的に示せ」というのが批判者たちの注文であります。だけども、本当にそれだけなんでしょうか。いくら保守派でも全国紙です。「こんなご時世に『楽しむ』なんて怪しからん」とか、「多様な価値観や自己実現などどうでもよろしい」などと公言するとそっぽを向く読者も多いですから、ちょっと遠慮してるのではないでしょうか。もう少し精読してみると、本音では首相が提唱した目的自体に文句がありそうであります。
まずは読売さんの社説を見てみましょう。「個人の価値観は尊重されるべきだが、そうした考え方が行き過ぎた結果、自らの権利ばかりを主張する風潮が社会に広が」っているといったような一文が見られますね。日本が困難に直面しているのは、ひとつには首相が奨励したいような個人主義の行き過ぎからである。そういう主張が垣間見えます。
産経さんも同様なんですが、「国民をサービスや安楽を喜ぶばかりの存在とみなして侮ってはいないか」というちょっと皮肉な(?)言いかたになっています。その後にあのケネディのことばがきますから、翻訳すると次のような主張になるのではないかと思います。「国民には、国家からサービスや安楽を受けとるだけでなく、自分の利害を度外視してでも国家のために働く義務がある。」
こういう視点から見ますと、石破首相の「楽しい国」論は、自分のことしか考えない子どもような人びとを甘やかすように聞える。あたかも「なんでも自分の好きなことをしていいんですよ。自分の夢を追ってください。私の目指す政治はそういうあなたがたを助ける政治です」という風に聞こえる。そうやって「自分探し」とか「私らしさ追求」とか「自己実現」をの風潮を助長して、若者や女性におもねっている。
はっきりとは書かれていませんが、保守派の主張の背景には、おそらく「(自分さえ)楽しければいいじゃん」と考える人が増えてるという懸念があります。それだけならまだ赦せますが、人権や憲法などを楯にして、「オレが楽しく生きれる国家社会を要求する権利をオレは有してる」みたいなことをいう(あるいは口にせずともそのように振る舞う)人が増えてる。それが政治を機能不全に陥らせて、さまざまな問題への対処を困難にしている。責任ある政治指導者はこの風潮を抑える側に立たないとならないのに、逆にこうした個人主義者たちにお墨付きを与えてしまうようなことを言ってる。それが怪しからんというわけです。こう書くとちょっと旧弊な道学者風になって反発も買うんですが、こうした主張に共感を抱く人も少なくないのではと想像されます。
そして、これが保守の福祉国家批判にも関係してきます。福祉国家というのは、できるだけ楽をして楽しく暮らそうとするわがままな者たちを助けるために、真面目に働く生産者たちが犠牲にされる国家にほかならない。そういう批判であります。でありますから、たとい石破さん自身が福祉国家支持者でなくとも、そういう自分勝手な個人主義者を助長してるという批判が成り立つ。今日において福祉国家というものが嫌われるようになっているのも、そのように感じてる人が増えていることが一因ではないでしょうか。
フクシコッカっておいしいの?
しかし、自分はここに引っかかりを感じたのであります。プロテスタントのクリスチャンという石破さんの一面を考えたときに、「石破さんがいうところの『楽しい国』というのは、そういう意味なんだろうか」という疑問がわいたんです。このことば自体は他人の著作から借りてきたもので、そちらを読まないと具体的な内容は理解できないんでありますが、石破さんがあえてこのことばを選んだところに、自分にも無縁でないある種の屈折を見るような気がするんです。
と言いますのも、プロテスタント倫理におきましては、「この世を楽しむ」のは罪であるという観念が強いんです。これが自分のいう「呪い」でありまして、楽しんでいる自分を非難する自分がどこかにいて、なんとなく人生を楽しめないんです。楽しくて仲間も増やせる会食や宴会を避けて、一人で読書する石破さんみたいなひとも、やっぱりそういうところがあるんじゃないかと思うんですね。
前回、わたしは「福祉国家の宗教的起源」ということばを用いたんですが、これは少し意外かと思います。第一に、われわれの語彙においては、「福祉国家」というものが「知ってるけどよくわからない、だから自分ではあまり使わない」というようなことばであります。日本にそんなものがあるのか、ないのか、あるとしたらいつごろからあるのか、あったとしたらいつなくなったのか、ということさえぼくらは知りません。ただ、欧米で巷に流通してる言説を直輸入して、そのまま繰り返してるだけです。
しかし、今日の政治に関するコメントなどを見ていますと、「国民の生活をよくするために、政府はもっと積極的に社会経済に働きかけるべきである」ということが前提されていることが多い。言い換えますと、国家は国民の福利厚生に責任を有する。これがまあ福祉国家論的な発想なわけですから、自分が福祉国家論者だと思っていない人たちのあいだにも、潜在的な支持者がいると思われます。
「国家が国民のために働くなんて当り前じゃないか」と思われるかもしれませんが、実はそれが当り前になったのはごく最近の話であります。欧米先進国の19世紀の国家観におきましては、国家は必ずしも国民の福利厚生に責任をとらされなかった。とくにリベラルな国々では、国家が市場や社会に介入することを危険視する風潮がありまして、社会保障のみならず、国民教育とか公衆衛生というような、今日では国家の役割が当たり前となった分野においてさえも政治権力の介入に反対する声が強かった。義務教育や国民皆保険などの制度の導入においては、ドイツや日本のような後発の権威主義国家のほうが、かえって自由主義的な英仏なんかに先駆けていたりします。
第二に、この福祉国家の根拠としてわれわれが連想するのは、国民の物質的な生活条件であります。一般に思われているのは「多様な価値観」とか「自己実現」などといったふわっとしたものではありませんで、労働環境とか住宅環境でありますとか、失業対策、賃金引き上げであります。ひとはパンのためだけに生きるのではないにしても、まずはパンがないと生きられない。だからまずはみんなが飢えたりしないようにしてもらわなければならない。キリスト教だろうが何だろうが、近代的な福祉国家と宗教というのはつながりにくいんですね。
でありますから、「福祉国家の宗教的起源」などと言われても、まあピンとくるひとは多くありません。現実にも、福祉国家の起源は宗教的なものだけとはかぎりません。ドイツや日本のばあいなどは、国民統合の必要性や政府と政党とのあいだの抗争(まだ政党内閣というものが存在していませんでした)といったようなものが、各種の市場規制、義務教育、社会保障制度導入といった積極政策の直接の動機になっています。
しかし、支配層が国民の教育や福利厚生を心配するのは、必ずしも慈悲とか愛国心からではありません。統治の必要性に迫られてであります。新興の国民国家でありますから国民統合の度合がちょっと怪しい。ですから、「お前たちは○○国の君主をいただく臣民である」とか、「飲酒を控えて労働に勤しみなさい、君主の政府はそういう人々を助けてやる(だから野党なんかに票を入れずに政府を支持しなさい)」とかいうことを教え込む必要があった。つまり、伝統的な家父長の立場を国家が引き受けたわけであります。宗教も利用されたんですが、それはかえって政治的な必要を満たすための道具として利用されたという側面が強い。
ところが、19世紀の英仏、あるいは米国のようなリベラリズムが支配的なイデオロギーとなった社会では、このような国家の積極的な介入に不信感をもつ市民階級が台頭していました。市民社会(当時は市場もここに含まれました)というのは国家の強権発動なしに、自律的に安定しうる。であるから、国家の社会への介入は必要最小限に抑えておくべきである。そういう考えが強かったんです。
「一人が全体のために」対「全体が一人のために」
しかし、世紀変わり目あたりを境にして、こうした古典的なリベラリズムは次第に新しいリベラリズムによってとって代わられます。国家権力を忌避するんではなくて、それを積極的に用いて経済的自由や社会的自由を制限していくことを正当化する思想に変貌していくんです。英国ではこれが新自由主義と呼ばれました(ネオリベラリズムではなくてニュー・リベラリズムです)。今日では新自由主義(ネオの方)は福祉国家嫌いの保守派を意味しますから、ちょっと混乱するんですが、ニューが頭につくリベラリズムは今日の左派リベラリズムの源流であります。
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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。