公立学校においてICTを使用するためには、子どものつながりがベースにあるのではないかと最近思う
先日、小学校1年生の息子がタブレットを持って帰ってきました。小1でもうすでにタブレットを持っているのかと驚きですが、もう当たり前のように使う時代になっているんだと実感しました。
確かに、文部科学省も文房具のように用いると述べています。以下で述べられていますが、今日はこの個別最適な学びと協働的な学びについて考えていきます。
個別最適な学びと協働的な学びの位置づけ
最近よく聞くこの2つの言葉ですが、どちらもかっこいい言葉ですが、この2つの位置づけを考えていったほうが良いなと最近思っています。
なぜなら、個別最適な学びって結構ふわっとしているし、個別で最適な学びを誰が評価するのか全くわからないからです。
個別最適な学びとは
文部科学省によれば、個別最適な学びとは以下のものです。
じゃあ、指導の個別化とはなにか?
学習の個性化とはなにか?
僕はこの学習の個性化について違和感があります。子ども自身が最適となるように調整とありますが、義務教育段階の子どもにとって最適と判断できるのでしょうか?最適と判断できる子どもは、すべての子どもを想定しているのでしょうか?と思います。こういった調整が可能な子どもは、頭の良い、点数が高く、近くにロールモデルのいる子どもだけで、点数が取れずに、家庭に勉強する環境がない子は学びの調整どころか、学ぶ時間さえとれないのではないでしょうか?
こうしたことから、個別最適化が先行すると学力の格差が拡大するような気がしています。
協働的な学びとは
文部科学省には以下のように載っています。
以上に載っており、これには納得です。特に、多様な他者との協働、あらゆる他者を価値のある存在として尊重等は本当に大事な考え方だと思います。日本社会は、学力の高い子は年齢が上がるにつれて、学力が高い子とのみ付き合っていきます。しかし、日本社会は多様な人が住む社会なので、社会のルールを作る人が様々な背景をもつ人を想定したり、その人を思いやってルールを作っていく必要があり、そのような基盤を協働的な学びの理念でつくることができると思うからです。
ICTを用いた個別最適な学びと協働的な学びの位置づけ
このようなことから、ICTを用いた個別最適な学びと協働的な学びの位置づけを考えると、ICTを用いた個別最適な学びを重視してしまうと、できる子はどんどんできる、できない子はどんどんできなくなるような格差が広がりそうな気がします。特に様々な層の子どもが通う公立学校では特にそう思います。ICTに長けていない子を長けている子がケアして一緒に学ぶ。そういった場面は公立学校ならではの場面だと思います。
したがって、協働的な学びをベースにして、個別最適な学びもあるような位置づけにしていくと、公立学校でもうまくいくような気がしました。