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スピッツ「冷たい頬」を聴くと青春の刹那を思い出す
スピッツの表す世界観は、どこか刹那的な印象を受ける。
その世界には、永遠などなくて、全てがもろく儚いものだ。
そんなスピッツの中で一番好きな曲は、「冷たい頬」だ。
特に高校時代に、この曲をよく聴いていた。
「青春は過ぎ去ったあとに、それが青春であったと気付く」と昔何かの本で読んだことがある。
でも、私は高校時代、
「今まさに私は『青春』を生きている」という実感があった。
「この瞬間のことを、大人になったときに『青春』と呼ぶのだろうな」と変に俯瞰的な、でも確固たる自信があった。
永遠には続かない青春を生きている自覚があったからこそ、高校時代の私はスピッツの刹那的な世界観にひどく共感し、好んで聴いていたのかもしれない。
高校は進学校で、個性的な人たちの集まりだった。
中学までのように「大衆ウケする自分」を演じ、作る必要はそこにはなかった。
皆、自分の好きなものを好きだと言い、それが独特であればあるほどむしろ面白がられた。
中学までとは違い、授業の内容も、そして周りのレベルも一気に高くなったので、勉強面でのしんどさはあった。
ただ、高校時代は自由で、尊くて。
生きている世界も視野も驚くほど狭いのに、自分の可能性は限りなく大きく感じられた。
そして、日々の取るに足らない出来事も、自分にとっては一大事で、全力で楽しみ、笑い、全力で悲しみ、憂いながら生きていた。
学校帰りにマクドナルドで友達と延々と話してはお腹を抱えて笑ったり、
部活動は3年間続けたけど全くうまくなれず顧問には「猿」と罵られたり、
若い生物の先生をドラマ「高校教師」と重ね合わせひたすら妄想話に話を咲かせたり、
付き合った彼に別れ話を切り出すも「別れてもいいけど、お〇ぱいだけ最後にもませて」と言われたり、
毎週火曜日に学食でカツとじ定食を口の周りにつけながら頬張ったり、
体育会の打ち上げでは夜の海を見ながら皆で花火をし、最後はくそ真面目に将来の夢を語り合ったり、
修学旅行の夜の自由行動でカップルが続々と合流する中、友達と「とりあえず走ろか」と言い、女10人夜の札幌の街を全力疾走したり、
予備校帰りに友達と静寂の商店街を歩きながら志望校への決意を語ったり、
受験を控えた秋にクラスメイトと付き合い始め、暗くなるまで一緒に教室で勉強したり―。
今、もしあの場所をあのメンバーで過ごしても、きっと同じような時間は過ごせないと思う。
ティーンエイジャーならではの怖いもの知らずの”若さ”があったからこそ、青春を肌で感じながら日々生きれたのだろう。
ふざけ過ぎて恋が幻でも 構わないといつしか思っていた
壊れながら君を追いかけてく 近づいても 遠くても知っていた
それが全てで 何もないこと 時のシャワーの中で
(引用「冷たい頬」スピッツ)
この曲を聴くと、夢なのか、現実なのか、自分でもどの世界を生きているのか分からない不思議な感覚になる。
君が目の前にいて、君にどんどん夢中になっていって―。
でもそこには、儚さゆえの空虚感が漂っている。
ただ、一つ確実なのは、それが刹那であろうと、この自分の目の前にある「今」こそが全てなのだ。
さよなら僕の かわいいシロツメクサと 手帖の隅で 眠り続けるストーリー
風に吹かれた君の 冷たい頬に ふれてみた小さな午後
(引用「冷たい頬」スピッツ)
青春が刹那であろうと、それがもう二度と返ってこないものであっても、胸の中では生き続ける。
まさに、「冷たい頬」のラストのイメージと重なる部分がある。
そして、今、私は異国の地で「冷たい頬」を聴いている。
遠い青春の記憶と遠い故郷への思いがあふれ出し、思わず感情が爆発しそうになってはすっと上を見上げ、目を閉じる。
そんな”今”のことも、きっと10年後、20年後にまた「冷たい頬」を聴きながら思い出すのだろう。
そう、私達はいつだって「刹那」を生きる―。
はぁ。ええ曲や~。マサムネさん夢に出てきそう。
こんなことを書いていますが、普段は、知育や英語学習についてのブログを書いています。
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