さくらの憂国日記【今さらファイブ・アイズへいらっしゃい?】

日本の新聞や、テレビが報じる記事の中に、それとなくフェイクニュースを潜ませて、世論誘導することは、今や日本だけでなく、世界中で当たり前になっています。SNSの普及とともに、私たちは、知らないうちに偽情報を、あたかも真実であるかのように信じてしまう危険が、毎日のように起きています。
 ある日本の新聞の電子版が、中国で今大激論が起きていると報じていました。それは、日米開戦前の日本の失敗を、中国政府は教訓にすべきだとする、冷静な警告が相次いで二つなされ、大論争を巻き起こしているというものです。
 一つは、日本は、ハワイ真珠湾攻撃によって米、英、フランス、豪、中国、最後はソ連までも同時に敵にした。戦前の日本と今の中国が似た過ちを犯しているから中国は注意すべきだというもの。
 もう一つは、1941年にベトナムのカムラン湾など南部仏印に進駐した日本軍の行動が、フィリピンを含む米国の核心的な利益を侵すとみなされた。今の中国の南シナ海の諸位牌はかつての日本の仏印進駐とおなじだというもの。
 日本が支那事変、大東亜戦争を戦っていたとき、中華人民共和国は、まだ存在していませんから、中国と戦っていません。戦ったのは、台湾に逃れたかつての国民党政府です。また、日米開戦の引き金は、日本軍のインドシナ半島の南部仏印進駐などではありませんでした。
次の年表を読めば、そうではないことがわかるでしょう。アメリカは少なくてもその1年前に、日本に戦争を仕掛けているのです。日本軍の隼戦闘機やゼロ戦と、アメリカ空軍カーチスP40の空中戦が、中国ビルマ国境周辺の上空で行われていたのです。この事実があきらかになりますと、日本が、侵略したというストーリーが成り立たなくなります。日本は逆に攻撃されたということになります。事実支那事変(日中戦争)前に多くの罪もない一般の日本人が各地で虐殺されています。満州事変後、排日運動の裏に英米と国民党政府がいて、「中国から満州を奪った敵だ、やっつけろ!」の政治宣伝を叫び、華僑が日本人商店を略奪、破壊しました。マレーの虎で有名なハリマオ(本名谷豊)は、三歳のとき一家でマレー半島南部英領トレンガヌ州に移住して、両親は、理髪店とクリーニング店を経営。豊が徴兵検査で日本に帰国中、広東人の暴徒が風邪で寝ていた7歳の妹の首を斬首。その首を高く掲げて華僑のデモに参加したといわれています。豊は、華僑、英国人に復習を誓ったのです。満州が日本の侵略だといって中国国民党政府は、国際連盟に訴えましたが、列強は満州の日本の権益を認めるとともに、中国の主権を認め、ゆくゆくは英米仏ソ連も満州に権益を持とうとするものでした。詳しくは「大人が知らない教科書の違い」満州国建国でお話ししますが、国際法上何の問題もなく、事実バチカン、ドイツ、イタリア、スペインなど20カ国から満州人の国家満州国は、承認されたのです。何が問題でしょうか。その満州人の国家、満州国を侵略して、満州語を禁じ、東北地方にしたのは今の中国です。さらに内モンゴル、チベット、ウイグルも侵略し、今各民族のことばを禁止しているではないですか。日本は、満州を侵略したというのは自分たちの侵略を隠すため以外、他にありません。
1921年ワシントン会議で、20年続いた日英同盟が、米国の強い意向で廃棄
1927年から1940年にかけて米国は、蒋介石国民党に計4億2千万ドルを援
1931年満州事変
1932年満州国建国 後に独、伊、スペイン、バチカンなど20カ国に承認される。
1936年西安事件 蒋介石監禁される
1937年支那事変
1937年ソ連航空機、武器弾薬を援助
1938年フランス1億5千万フラン借款で支援
1938年 日本国家総動員法成立 日中戦争の長期化によりドイツやソ連のように統制経済を理想
                とする思想が広がっていた。
1939年 英1千万ポンド借款 英国、日本と戦争する意思決定
1939年 日米通商航海条約を延長せず  米国、日本と戦争する意思決定
1940年夏 フライイングタイガーズ派遣。 日本爆撃計画にルーズベルト署名
1940年9月 三国同盟締結 日本軍北部仏印進駐
1941年7月 日本軍による南部仏印進駐 
 日本は、ここでようやくオランダとの石油輸入交渉を有利に運ぶため、オランダに圧力をかけようと、フランス政府の了解のもとに仏印に進駐したのです。英国も米国も日本と戦う決意があり、つまり外交交渉で日本を相手にしていないのです。日本の仏印進駐よりも1年前にもう日米戦争は、始まっていて、日本よ、降伏するか、戦うか、選択せよということです。この年表から、それを読み取れます。
 そもそも日米は、争う必要はありませんでした。日本は、アメリカから石油、航空機用ガソリン、鉄くず、その他を輸入していました。日本は、それらを使った製品と輸入した機械、原材料を支那の政府(軍閥)や満州に輸出していました。ちなみに日本は、現金払いでしたからアメリカからみましたら、いいお客様でした。簡単に言えばアメリカが、機械原材料を日本に輸出して、日本がこれを加工、支那と満州へ輸出するという、win.win.の関係でした。アメリカの当時の支那への直接輸出は、半分以上が石油製品、タバコ、綿花でした。これらは競争力があり、日本と競合することはなく、まして戦争などする必要などなかったのです。ところがいつの間にか、米国は他の列強によって先頭に押し出され、日本包囲網の中心になっていました。

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