「キャンセルされた歴史を取り戻す」これでも【手奇塾】侵略か?第10回 大東亜戦争とアジアの独立

キャンセルされた歴史を取り戻す、これでも侵略か、第10回は、大東亜戦争とアジアの独立です。
第二次世界大戦は、1939年9月に、ドイツがポーランドに武力侵略したため、イギリス、フランスが、ドイツに宣戦布告。こうしてヨーロッパでの戦争が始まりました。
日本が英米、オランダ、オーストラリアと戦った、太平洋インド洋での戦いは、それから2年以上もたってからでした。
この間まだ大陸で、日本と蒋介石との戦争は続いていましたが、下火になっていました。しかし、英米の日本に対する圧力は、日増しに強まっていきます。
この時の日本の戦争を太平洋戦争といったり、侵略戦争というのが、今までの学校教育でした。そして自由社以外の教科書には、日本の戦争がアジアの植民地を開放したとは書かれません。
中国への侵略の始まりは、満洲事変からとか、朝鮮半島への日本の侵略の始まりは、朝鮮併合とかいろいろな言い方がされています。しかし、これらは中国やイギリス、アメリカ側の見方、朝鮮側の見方と言えるでしょう。それらは自国にとって都合の良い、日本人に罪悪感を植え付け、ひ弱な日本のままにして、日本から利益をむしり取るための政治宣伝といえそうです。
蒋介石政権が日本に戦争を仕掛けたことは、すでに日中戦争でお話ししました。1898年にアメリカはフィリピンを、それ以前にイギリスは、インド、マレー半島など、オランダはインドネシアを武力で支配し、植民地として、現地住民を奴隷のように安い賃金で働かせていたのです。日本も江戸時代あるいはその前に、へたをすれば欧米の植民地にされていたかもしれません。
そうならなかったのは運がよかったのではなく、我々のご先祖が強く、賢かったからとしか言いようがありません。日本は、日清・日露戦争、第一次世界大戦をへて、強大な軍事力を身に着け、国際社会に登場してきたわけです。それを英米、ソ連は恐れ、警戒し始めます。しかし、彼らは日本の弱点がエネルギー、つまり、石油であることを知っていました。
いざとなったら、日本への石油輸出を止めれば、軍艦、飛行機は動かず、日本は言うことを聞かざるを得ないと考えていたはずです。いざ戦争になっても、小競り合いていどで、まさか彼らの植民地支配が終わるなどとは、夢にも思っていなかったでしょう。日本は、1919年、大正8年、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、人種差別の撤廃を提案しました。
国際会議で、こうした人種差別の撤廃を訴えたのは、日本が歴史上初めてでした。植民地支配をしている英米は、当然賛同せず、特にアメリカはこの提案を潰してしまいます。この頃は日本人も、白人と同等に扱われていませんでした。アフリカもアジアもアパルトヘイト、人種差別が常識でした。「そんな国際連盟なら参加する必要はない」という強硬な意見も当時あったそうです。
アメリカは、1924年、日本人移民を禁止する排日移民法を制定し、日本の対米国民感情は悪化しました。わが国は第1次世界大戦で、地中海に駆逐艦隊を派遣して、ドイツのUボートから英国商船を護衛したり、チンタオのドイツ軍を攻撃し、占領したりして、戦勝国となりました。
このころは日本の商社など、企業や個人も経済的に力をつけて、ドイツの権益を受け継いだ、南太平洋や今のマレーシアー、インドネシア、フィリピンなどに進出していました。そのためすでに商権を確立して、一大勢力になっていた華僑や、東南アジアを植民地支配していた欧米諸国にとても警戒されるようになったのです。彼らは、満州事変、続く満州国建国を反日宣伝に利用しました。華僑とは、中国籍のまま海外に移住した中国人です。
たとえばこのような例がありました。マレーシアは、イギリスの植民地でしたので英領マラヤ、通常マレーと言っていました。谷豊という当時3歳の日本人一家も福岡県から、マレー半島南部の州都、トレンガヌに移住してクリーニング店と床屋を営んでいました。満州事変が起こると、それを口実に、トレンガヌ一体にも排日の動きがでてきて、華僑が日本人の商店を襲って、略奪、投石をするようになりました。
昭和7年、1932年11月の事でした。豊青年は、徴兵検査で日本に帰国、幼い妹は風邪で一人とこに臥せていました。悲劇はこの時起きました。
後編に続く

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