中学歴史教科書 自由社VS学び舎 4.支那事変(日中戦争)(1)
大人も知らない教科書、新徹底比較、炎のデスマッチ第4回は、支那事変です。日本は本当に侵略したのでしょうか? 自由社と学び舎の教科書を比較しながらそれを明らかにしていきたいと思います。侵略とは何を指すのか。侵略の定義は、いまだに明確ではありません。中国は、東トルキスタン(ウイグル自治区)やチベット、内モンゴル、満州国を侵略した?。日本の沖縄県石垣市の尖閣諸島を侵略している? 答えは、国によって、立場によって違ってくるのではないでしょうか。
学び舎は、支那事変を日中戦争と表記して、見出しは、「上海、南京、重慶へ」です。小見出しは、「日本の侵略・中国の抵抗」とはっきりと「日本の侵略」と記述して教えています。234Pと235Pの2ページで説明しています。
また、学び舎は、満州事変(1931年)、支那事変(日中戦争、大東亜戦争(アジア太平洋戦争)の終結までの15年間を15年戦争と呼んでいます。
学び舎の教科書では、日本が満州国をつくった後も中国へ侵入しようとして戦争になり戦闘は、上海から南京市、奥地の重慶へと広がった。この時南京事件が起きたと記述されています。
一方自由社は、見出しを日中戦争(支那事変)と中国をめぐる日米関係の悪化の合計4ページで説明しています。それぞれ3つの小見出しがあります。コミンテルンの世界戦略、西安事件、日中戦争の始まり、次が、日中戦争の長期化、国家総動員体制、悪化する日米関係を記述しています。
側注の記述にあるように、日本は、義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約(北京議定書)によって、北京周辺に5000人の軍隊を駐屯させていました。自由社は、「コミンテルン(国際共産党)は、社会主義のソ連を守りつつ欧米や日本の植民地や従属国で活動する世界革命戦略を立てた。活動拠点の中国では、日本がしだいに標的となっていった」と記述しています。
次に西安事件を記述し、蒋介石に「国共内戦をやめ、一致して日本と戦うことを認めさせた。こうして中国では日本と戦う体制が整っていった」と232Pで記述しています。
そうとは知らず日本が、この間戦争を避ける努力をしていたことが自由社には記述されています。
232Pのコラムには「日本政府は、満州事変で得た権益を放棄するなどの内容を含む、蒋介石との妥協案を用意した。(船津幸作)。ところが第1回の交渉が始まる当日の上海で、日本人将兵惨殺事件が起こり交渉は取りやめになった」と記述されています。
それまで国民党内の共産党分子の挑発がこれでもかと続いていましたが、自由社の記述からは、日本政府は、国民党政府との戦闘はできるだけ避けようとしていたことがわかります。それを分かり易くまとめると次のようになります。 続く