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『透明を満たす』テクスト分析、「私」の数について
(文責:伏見瞬)
世間的なスキャンダルからは距離を置いて暮らしていこう、元々興味も薄いし追っても別にいいことないから、と普段思っている私ですが、渡邊渚『透明を満たす』はスキャンダルとは無縁の充実した内容になっていると聞いたので、買って読んでみることにしました。
以下の番組の後半で、本書の内容が語られています。番組自体面白いのでおすすめです。
『透明を満たす』の目標、クールさと混乱
『透明を満たす』には、「私」をどのように扱うかという主題が文中から写真にいたるまで、一貫して流れています。
本書で著者は、幼少期から会社員になるまでの半生を前半で簡潔に描き、そこから、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えることになった自らの経験を詳細に綴っていきます。自らの存在と経験を、読み/読まれるという行為の中で読者に分け与える。本書で目指される目標は、ひとまずそのように形容できます。著者自身は、「私がこの本を書いた理由の一つは、私の経験を残すことがPTSDをはじめとする精神疾患への偏見や間違った知識が正される一助になるかもしれないと思ったからです」と、まえがきに書いています。
実際に、「自分一人だけが立ち止まっているだけに思えて仕方ない」といった精神的な不安のほか、フラッシュバックによって身体が動かなくなったり、顔中に蕁麻疹ができたりと、著者に起きた肉体的な変化も克明に描かれている。自殺未遂の描写も出てきます。そこから、どのように回復していったか。目標を失った著者が何を目標にできたか。
読んでいて面白かったのは、著者の実際的でクールな部分が時々顔を見せることです。例えば、回復のために著者は「持続エクスプロージャー療法」という治療を選択するのですが、これはトラウマを想起させる食べ物の写真を毎日みたり、トラウマとなった出来事を思い出して自ら語ったりと、かなりハードな方法。大変に辛くてしんどい工程だが、なぜきつい治療を続けることができたかというと、"この治療にはかなり高額な費用がかかるから"。そして「90分で1万4000円、それを10〜15回受けた」と具体的な数字も示す。馬鹿にならない費用がかかるんだから、元を取れるくらい治療から多くを学ばねばならない。病気の中でも、著者はお金の問題に取り組んでいる。一方で冷静に物事を見て解決を探る態度が出ているからこそ、自分の体を傷つける場面の、「残された道具はボールペンだけで、それを握りしめながら号泣しているところを、看護婦さんに発見された。死ねなかった。」といった混乱の記述が読む人に伝わります。
三つの特徴
『透明を満たす』の文章には三つの特徴があります。それは、最初の一段落に表れます。
米どころ・新潟県に生まれ、自然の中でのびのびと過ごした幼少期だった。小学校は1学年20人ちょっと、全校生徒120人くらいだったと記憶している。田んぼの真ん中にある集落のような場所に住んでいたから、学校の登下校はとても大変だった。稲に囲まれているから木陰が一切なくて夏場はとても暑く、冬場は吹雪で傘もさせず、スキーウェアを着て通っていた。ランドセルには熊よけの鈴をつけて、五頭山を眺めながらあぜ道を歌って歩くという絵に描いたような田舎の小学生だった。いつかトトロに会えるのではと期待してしまうほどの大自然で、蒼い田畑から黄金色の稲穂、そしてキラキラ輝く銀世界など、 四季折々の美しさに触れられる場所だった。
まず、ここには季節と自然の描写が多く含まれます。「木陰が一切なくて夏場はとても暑く、冬場は吹雪で傘もさせず、スキーウェアを着て通っていた」に顕著なように、季節・天候と、新潟で暮らした頃の記憶が著者の中で結びついていることが示されている。
(調べると、渡邊渚さんは阿賀野市育ちということで、佐藤真監督によるドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』に映された阿賀の風景と近い場所で育ったのかと知り、ハッとなりました。フジテレビアナウンサーのイメージとは全く音なる出自を持っているんだな、一般に流布するイメージって本当に当てにならないものだなと)
PTSDのきっけけとなる事件があった日は「2023年6月のある雨の日」とつづられ、そのあと、精神的な不調が強まった後には「精神科病棟で過ごした夏」という言葉も記されます。本人にとって大きな出来事は天気や季節を結びつくことが、最初の一文が予告している。
次に、感情の変化に対して接続語が使われていないこと。「夏場はとても暑く、冬場は吹雪で傘もさせず」という環境の厳しさの描写から、「いつかトトロに会えるのではと期待してしまうほどの大自然」で「 四季折々の美しさに触れられる」という季節の恵みの描写へ。自然への認識は逆転していますが、「しかし」「だが」などの逆接の接続詞が使われていません。接続詞を使わずに、主観的な感覚の変化を書いている。逆接はこの後も多く使われません。「ただ」という、留保的な弱い逆説がたびたび使用されますが、数は多くない。
「心が殺される」決定的なことが起きた「2023年6月のある雨の日」についても、接続詞がなく描かれる。そもそも、本書でこの事件は雨の日に起きたと仕事の関係のなかで起きた以外の情報が書かれません。事件が著者にどのように作用したかのエフェクトの部分が、多く綴られていきます。そうした精神的影響を、明確なきっかけを描いたり接続詞でくっきりと分けることなく、「いつのまにか変わっていた」という曖昧さで表現していく。おそらく、感情や身体の変化を与うる限り丁寧に描こうとした結果、明確な分節化を封じたのだと思います。
「私」の濃度
そして、本書がなにより丁寧に描こうとしているのは、「私」の扱いではないでしょうか。
先に引用した冒頭部に、「私」の一文字は一度も出てきません。子供時代からアナウンサーになるまでの回想に、「私」は多く出てこない。「私」が増えてくるのは、「6月の雨の日」の事件以後です。
唐突に、私はもう自分がまともな人生を歩めないのではないかと思って、「○○さんの ように素敵な旦那さんがいて、可愛くて仕方ないお子さんが生まれて、私にそういう未来は来るのかな」と聞いて顔を上げたら、彼女が「幸せな未来は絶対来る」と涙を流しながら力強く言った。
私に起きたことを、共に泣いてくれる人がいた。それだけで救われたし、私は泣いてい いんだ、悲しんでいいんだと認められた気がした。そして、「幸せな未来は絶対来る」と いう言葉に、私はその後、幾度となく助けられていくことになる。
「子供が一生できない」という不安に駆られた後を描く二段落の文章において、「私」は5度登場する。「私」の濃度が高まっています。
つまり『透明を満たす』は、PTSD体験を経て自意識と戦わざるを得なくなった、「私」の濃度の変化を文章で表しているのではないか。
数えてみると、自身の半生を描く1章前半、22ページの間に「私」は33回登場します(1ページあたり1.5回)。事件による病気の発生、そこからの回復前の描く1章中盤から後半の53ページで133回(1ページあたり2.51回)。病気になってわかったことを書いていく2章の48ページで9回(1ページあたり2.04回)。PTSDになって以降の記述、特に事件が起きて症状が強く出た頃を記述する際に、「私」が集中しています。
(なお、「私」のカウントの際、著者の妹や母が発する言葉に含まれる「私」は含めていません。著者本人にとっての「私」だけをカウントしています。)
今の日本における「エッセイ」という文筆ジャンルは、自身の体験を語る文章を指しています。エッセイは、執筆者が自分をどのように出すかが文章の質に大きく関わる。『透明を満たす』は、PTSDによって「私」がどのように個人の心理に現れるかを、丁寧に描き出すエッセイであると言えます。
透明の両義性
「フォトエッセイ」の「フォト」の部分に関しても、性的かつ扇情的な表現は見られない。病気になって、一時は蕁麻疹まみれの痩せ細った不健康になった「私」が、大きな体験を抱えつつも身体を回復させた。そうした身体の状態と表情を、表すような写真が集まっている。破顔するような笑顔と、不安定にも見える表情。全回復したわけではない、それでも生が続いているという記録を、「フォト」に残すという意図が感じられます。
『透明を満たす』というタイトルは、トラウマとなる事件に巻き込まれて、自分が社会から存在しないものとして扱われた=「透明人間」にさせられた、という著者の感覚に由来しています。「私」が社会から無視される「透明人間」になったからこそ、自らで「私」を立て直さねければいけなくなる。今までは考えなくて済んでいた「私」を見つめざるを得ない。自分自身による「私」の再生が、「透明を満たす」という題名にはかけられています。
「透明」を、「邪念のなさ」というポジティブな側面と、「透明人間」というネガティブな側面、双方にまたがって両義的に綴っていく。両義性は、著者本人が事件によって立たされた立場にも言えることでしょう。「私」の状況とその変化を、真っ二つに断裁せずに綴る。両義性を保ったまま「私」の多様さを綴れるからこそ、本書は「私」と「社会」の適切な関係を読者が考えられる本になっているのではないでしょうか。
(『透明に満たす』の書評としては以上なのですが、以下は社会状況とビジネスの視点から考えた本書の感想です。ご興味のある方は、メンバーシップにご登録いただければ幸いです)
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