【講義】創作者はどんどん忘るべし
吾輩は記憶力がわるい。きょくどにわるいような気がするし普通のような気もする。
どれくらい悪いかというと、具体的例をあげると、『美農牛』殊能将之(講談社ノベルス)というミステリ小説があり、吾輩はこれが殊能作品の中でいちばん好きである。この小説おもしろいです。どのようにおもしろいのかは別で書くね。
すきなので『美農牛』は六回ほど読んだ。読むたびに忘れる。何を忘れるかというと、真犯人を忘れる。だから毎回たのしく読める。わすれるといってもすべてを忘れるのではなく、名探偵・石動戯作の宿泊する家のおばさんが、カレーをつくり、そのごはんは卵と炒めている、おいしい。というようなことは覚えている。
真犯人を忘れているし、好きなエピソードとか描写はおぼえているので、また読むのがたのしみに読むので、毎回たのしく読むことができる。たのしみが、増す。
読者もどんどん、忘れたほうがよい。そうすると好きな作品を何度も楽しむことができる。
書くことも同じであろう。同じではないかも。
博覧強記ということばがある。ひろく読み、なんでもかんでも覚えている人のことをいう。吾輩も少年のころは、この博覧強記にあこがれていた時期がある。でもいまは違う。博覧強記なんていやだ。
博覧強記の人は、再読のひつようがない。覚えているから。さびしい感じがする。
博覧強記の人は、書くのが困難ではなかろうか。この世には、ありとあらゆる文章がすでに、出そろっている。名文、名文章、名言、いろいろある。これらを読むはしからすべて覚えていると、自分は、何を書けばいいのかなあ、となるのではないか。悲しい。
殊能将之は、読み過ぎたし、覚え過ぎていたし、頭が良すぎた。
だからやがて書かなくなった(書けなくなった?)。吾輩らファンは粘り強く待ったが、書かないままで、亡くなってしまった。
さびしいし、悲しい。
今でも。
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