【読書記録】「社会はなぜ左と右に分かれるのか」ジョナサン・ハイト 高橋洋訳
経営コンサルタントの走り、波頭亮がそこかしこで「人間は生まれながらにして右と左に分かれている」と引用していたので、気になって読んでみた。600ページにも及ぶ長大な作品であったため、この本を読んで学んだこととして書かなければいけないことが多すぎる。前書きでも言及されている通り、この本はそもそも3つの本が合冊となっているような構成なので、その分だけ内容もバリエーションに富み「この本を読んで一言」なんて安直なことを言うことは難しくなっている。それに加え、そこらへんの「読みやすさ重視」のテキトーな本とは違って中身があまりにも濃厚で驚きに満ち溢れたものなので、なかなか短く終わらせるわけにはいかない。まあ読みやすいクセして衝撃を受けるような本がないわけでもない。例えばくまモンなどをデザインした水野学による『センスは知識からはじまる』は小一時間で読めて水を飲むようにわかりやすく理解できるのだが、その内容は自分にとっては非常に画期的なものであった。しかし一般的に言って、自己啓発の本棚のベストセラーが役に立った試しがないのは残念ながらも事実である。
第一部
第一部『まず直観、それから戦略的な思考』だが、我々のような頭でっかちが普段神聖化すらしかねないくらいに崇めている人間の理性というものが、実際はいかに非合理的で直感的なものか説かれている。一発でこの話を理解する事例を挙げるとすれば確証バイアスであろう。
議論をするとき、当然理性によって決着をつけることが最良の手段であると考えられている。どこかで聞いた話だが、古代ギリシアで論理が発達したのは点在するポリスの間で神も法も道徳も何もかもについてソリが合わない人々が、唯一相手を納得させることができる手段として論理を持ち出したからだという。しかしこの話でいう論理とは「論争」であって、理想的な絶対的論理ではないことには注意されたい。つまり論破に成功したからといって、それが正しいとはならない。ガリレオ以前のアリストテレスの科学観が最たる例であろう。1000年を超えて維持され続けてきたアリストテレスの理論の正当性の根拠は、もちろんある程度の実験によって保証されたものもあっただろうが、それ以上に第一には「対立意見が悉く論破されたこと」にあると思われる。すなわちアリストテレスの科学は言葉による科学である。この理論を論駁することに成功したのが、ガリレオの幾何学による科学である。なお、アリストテレス『形而上学』において、物理学は「幾何学」と呼称されていることは注目に値する。この点、前近代における科学が単純な言語だけによるものではなかったということは認めざるを得ないが、例えば四元素の「土から作られたものは土に帰ろうとし、火に作られたものは火に(アリギエーリ・ダンテ『神曲』の天国篇によれば火焔天に)帰ろうとする。従って土は下に落ち、火は上にのぼる」という考えなどに現れるように、理論の根底に言葉による「物語」があったことは認めても良いだろうとは思う。ちなみに近代科学の黎明期にあって科学の父と持て囃されるガリレオ・ガリレイは、基本的にはあくまで幾何学や思考実験に基づいて科学を論じたのであって、数式が科学の主役となるまでにはもう少し時を待たねばならない。古典力学最大の基本原理とみなされる運動方程式を現在の微分方程式の形にしたのはオイラーだと言われるくらいだ。ガリレイの言葉として頻繁に引用されるものには次のように書かれている。
宇宙は数学という言語で書かれている。そしてその文字は三角形であり、円であり、その他の幾何学図形である。
さて、確証バイアスの話に戻るが、こうした事実を挙げるまでもなく論争において我々が考えている「論理」とは往々にして自説を補強するためのものである。自分の考えを強調する論理は知能指数に応じていくらでも捻り出すことができるが、自説への反論を自ら出すことについては、頭の良し悪しによらず人類すべからく苦手だというのだ。例えば死刑制度について、ご自分が存続派か撤廃派か考えた上で、自分がそのように考える論拠を書き出し、また同様に対立者がそのように考える論拠を想像して書き出してみていただきたい。これを統計的に問題ない方法でテストすると、死刑賛成派はIQが高い人ほど治安が保障されるなどといった論拠を大量に列挙することができるが、他方相手方が考えること、例えば国家の手によって人を殺害するのは重篤な人権侵害であるなどといった論拠は知能指数によらずあまり挙げることができないという。逆も然りだ。死刑撤廃を掲げる人達は、犯人を殺したところで被害者は生還しないなどといった自説の論拠をそれこそいくらでも列挙できるが、被害者にとって犯人が多少の不自由はあれこの世でぬくぬくと生を謳歌していることは許せないだろうなどといった反対論拠を挙げることはなかなか難しいようだ。つまり我々の頭は「どちらが正しいか」を考えるために論理を使うのではなく、「どうやったら自分の意見が正しいと認められるか」を考えるために論理を使う。
こうした「論理の濫用」とも言えるような事態は確証バイアスに限らない。人間の考える理性はあくまで直観のサポートなのであって、理性が直感を統御することはほとんどない。理性は普段、直観を補強する形でしか力を発揮しない。本書ではこの有様を、象使い(理性)と象(直感)に喩えている。巨大な象の上にチョコンと人が乗っているのであって、もちろん象使いが像の動きを修正することは不可能ではないが、主たる象の向きを180º変えるということは難しいし、基本的には巨大な象の気の赴くままに動く。自らの無知を知りながらもソクラテスは論破しようとする姿勢は変えなかった。古代ギリシア以来人間が考えてきた理性の実態は、所詮この程度である。
第二部
第二部『道徳は危害と公正だけではない』は、主に従来の道徳心理学の認識の誤りを批判して書かれたものと思われるが、我々門外漢にもこの話は非常に刺さるものとなっている。これを読めばなぜアメリカでは都市部のいわゆる知識人に民主党支持者が多く地方に共和党支持者が多いかがはっきりとみて取れるし、我が国を含め右傾化なんて所々で言われている理由の片鱗が掴めるかもしれない。
まずこの話はアメリカに限らず学識者を名乗る全ての者及び学者の研究を多少なりとも信頼しようとする全ての者に読まれるべきだと思われるのだが、今までの統計に関する心理学は基本的に Western (欧米の)、Educated (教育・啓蒙され)、Industrialised (産業化した)、Rich (裕福で)、Democratic (民主主義的な) 文化のもとで生活している人 “WEIRD” を対象に行われているという。まあ被験者に学生バイトを雇っている以上はどうしてもその障壁を取り払うことはできないだろう。この WEIRD、限定用法の形容詞が5つも連なっていることから分かる通り、世界的に見れば圧倒的なマイノリティである。いくら世界的に WEIRD 化されているとはいえ、読者のほとんどはこの定義でいう WEIRD ではないはずだということからも、ことの重大さが分かるだろう。そしてもっと根深く問題となっているのが、WEIRD と非 WEIRD で道徳的価値観に大きな差があるという点だ。もう一度言うが、大学における実験は(少なくとも私の周りで有名な話では)往々にしてバイトを雇って被験者を集めている。これでは心理学が「人間の」心理を研究するのではなく、広義の「WEIRD の」心理を研究する学問となってしまっているという批判を受けても仕方がない。「広義の」と限定したのは、日本の大学において少なくとも Western は圧倒的少数派だからだ。広義でも日本の大学で WEIRD が適用されうる理由は後述する。
ではどのような点で WEIRD と非 WEIRD の道徳的価値観が異なるのか。WEIRD は「近代」の2文字に表される特徴を多分に含んでいる。個人主義にしろ、人権にしろ、脱宗教にしろ、自由平等博愛にしろ、民主主義にしろ、およそ近代を表す言葉について凡そ端から端までなんでもござれといったところだろうか。個人主義は単に人間に限った話ではなく、学術においても博物学や分類学に表されるように、総体の代表をサンプリングして捨象、抽象化することにより、単一のモデルを形成することに秀でている、といった特徴にもつながると見ている。他方非 WEIRD はその逆だ、というと非常に極端に感じまた愚かで前時代的な印象を受けるかもしれないが、純粋に特異な西洋文明が爆発的な拡大を見せているためにこのような印象を与えてしまうだけに過ぎないと言うことは付言しておいたほうがいいかもしれない。もちろん人権や平等なんかを無視するわけではないが、それ以上に尊重されるべき道徳規範が存在するために、WEIRD には「前時代的」という烙印を押されかねないとは言えるだろう。そして非 WEIRD に特有の、と言うよりも WEIRD があまり持ち合わせていないとでも言うべきかもしれないが、非 WEIRD に広くみられる道徳的価値観に「自分のいるグループを大切に」「ばっちいものには触れてはいけない」「年上は敬え」といった具合のものが挙げられる。どこか古臭い説教のような気もするし、とはいえ至って自然なことのようにも思えるかもしれないが、こうした道徳は WEIRD 文化ではあまり重要視されないものだ。なおグローバル化した現代にあっては Western に限らずとも WEIRD 的な価値観を持ち合わせている人はいくらでもいると考えられる。例えば日本の学会を含めた大学では Educated, Industrialised, Rich, Democratic あたりは満たすであろうし、Western は(仮に生まれてきた子供の間では民族間における道徳の差は存在しないという立場をとれば)開放的な道徳観ではそう重要にはならないと考えられるから、WEIRD 的な道徳観を持ち合わせている人は多いかと思われる。一日一食の貧乏暮らしをしているあたり個人的には Rich は認めたくないが、下を見れば自分より貧しい人なんていくらでもいるので、とりあえずここには挙げておこう。あ〜腹へった。
筆者は元々 WEIRD であり研究のためにインドへ赴いたのだが、西洋的な視点から見れば差別が蔓延り目を覆いたくなるような道徳世界を目の当たりにして戸惑いを見せるものの、ある程度時間が経てば自分もその道徳世界に染まっていることを発見したという。朱に交わればなんとやら、インド人が一見不合理で差別的な行動をとっていても、その道徳的正しさを理解できるようになったようだ。もちろん「インドの道徳が正しい」「WEIRD の道徳は誤りだ」というのではないことは百も承知であろうが、この「正しい」という感覚は記述を見るからにどうやら頭で理解できるものではなさそうである。この経験に基づいて、また数々の実験を参考に、非 WEIRD の価値観も含めた「道徳的基盤」というものが提唱される。人間の道徳は以下の6つの次元によって図ることができるというものだ。
ケア—危害
公正—欺瞞
忠誠—背信
権威—転覆
神聖—堕落
自由—抑圧
最後の「自由—抑圧」については一悶着あるようだが、ゲーム理論を中心にして従来「理知的」かつ「客観的」にとらえられてきたとされる道徳的価値観の「ケア—危害」「公正—欺瞞」だけでは人間の道徳を説明することが難しい、もっといえばほぼ不可能であるということがわかる。WEIRD に特化した研究では「忠誠—背信」以下3つの道徳的基盤を往々にして取りこぼしてしまうというのだ。近代思想にあまり馴染まないものであるということからもその原因の片鱗はわかるような気がする。
そして、この本ではアメリカにおける保守とリベラルを対比して描かれているが、WEIRD に代表されるリベラルが「ケア」「公正」「自由」の3つの道徳的基盤をとりわけ重視して他の3つにあまり気を配らないのに対し、保守は6つの道徳的基盤全てに(したがってリベラルに無視された3つに特に際立って見えるわけだが)注意を示す。私は物心ついた頃にはオバマが大統領になっていたのでもはや以下の議論の本質を経験していないが、オバマ以前のアメリカ民主党が目立った戦績を残せなかった理由に、「ケア」「公正」「自由」の3つの道徳的基盤に固執し「忠誠」「権威」「神聖」の道徳的基盤にも分け隔てなく訴えていた共和党が掬い上げた有権者に一向に気を配らなかったことを挙げている。「マイノリティに権利を」「世界に平和を」「貧者に希望を」といったことばかりに(決してこれらが悪い考えであるというわけではない)重きを置いてきたが故に、「仕事もしない税金泥棒を許すな」「家族を大切に」「キリスト教を守れ」と訴えかける共和党に敵対するだけの力を持つことができなかったという。私のTwitterはどういうパーソナライズをしたのか知らないが高頻度で右傾的なツイートが流れてくれるのだが、それでも共和党の弁舌にどこか嫌悪感を抱いてしまうあたり、自分の中には左翼的思想が根を張っていることを実感したと同時に、「忠誠」「権威」「神聖」の道徳的基盤をどれだけ軽視してきたか痛感させられもした。
第三部
第三部『道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする』では、これまでの個人主義的な科学で焦点を当てられてこなかった「集団」に特有の心理状態をテーマに話を進めている。例えば軍隊の行軍、人を集めただけでは烏合の衆にすぎないが、隊列を組み歩調を合わせることによって、えも言われぬ高揚感に満たされるという。間違っても訓練教官の鬼軍曹に敬意などを抱いて高揚感を得ているのではない。自分が多の中の一になっているという点において意識の高ぶりを感じるのである(このような書き方をしているあたり、『鋼の錬金術師』を思い出すのは私だけだろうか)。「自分が死んでも仲間の中で自分は生き続けることができる」という頭になって、結果軍隊としての戦績も上々というわけだ。スポーツの応援にしたって同じような感覚を得るらしい。とにかく大人数が揃って同じ動作をすることによって、今まで心理学その他で大々的に研究されることがなかった心理状態を作ることができるという点は注目に値する。
その中でも特筆されているのが宗教だ。かつて部族単位で戦闘・攻防を繰り広げていた時代において、宗教や通過儀礼のように構成員を縛り付けるものの存在は、集団存続に利するとされている。実験的にグループを用意する。一方は宗教に代表されるような厳しい規律を設け、他方には自由奔放とさせる。自由という魅力によって後者のグループの方が人を集めることができるが、結束力で言えば前者の方が強い。結果としてグループが崩壊せず長く存続したのは強い規律を設けた方であったという。こうした側面から、宗教を信仰する人間集団がダーウィンのいう「自然選択的に」残り、結果として「忠誠」「権威」「神聖」の道徳的基盤が今なお我々に根付いているというのだ。ちなみにこの話ではユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』に挙げられているような事柄がそこかしこに散りばめられている。あの本はまだ読破まではしてないが、どうも新規性に欠けて、どうしてこうも世間でチヤホヤされるのだろうと思っているのだが、本書を読んだせいでその謎が今一段と深まっている。まあ書いてあることが当然のように思っていても、あの本を読むときには「どうしてこんな単純なことに気づかなかったんだ!!」なんて気にはなってしまうのだが。
先の段落で「自然選択」という言葉を使った。決して私の独断的な判断からではなく、実際に本書でも自然選択という言葉は用いられている。ただし人間の心理についての話でよく言及される「人間の本性は旧石器の狩猟時代を引き継いでいる」という意味においてではない。もちろん旧石器の狩猟時代においても適者生存によって遺伝的に心理が遺伝していったことは認められるだろうが、ここでの話のスパンはもっと短い(とはいえダーウィンが引き合いに出した家畜の配合にまつわる畜産業と比べると長いだろうとは言われている)。数千年もあれば人間の道徳は遺伝子に記録されうるだろうというのだ。まず断りを入れておくが、「人間の性格は生まれた頃から何一つ変わらない、文字通り『三子の魂百まで』だ」という意味で言っているのではない。ただ初期状態、すなわち三子の魂は遺伝的に決まるらしい。では「三子の魂が百まで続かぬとはどういうことか」を問われれば、遺伝子に記録されている心理的傾向は、本や文章で言えばあくまで「草稿」の状態である、と答えている。つまり後書きや書き換えが可能なのだ。ただこの本の中では元々草稿に書かれている性格を 180º 転換することができるかについては言及がない。その点「結局書き換えられねーじゃん」となっても仕方ないかもしれないが、例えば遺伝子に「気まま」と書かれて生まれてきた子供が規律の厳しい学校に入学して教師に反目するようになると、「自由万歳、規制反対」という遺伝子のスイッチがオンになる。もしこのスイッチがオフのままだったらどこかの大会社でエリートとなる道を選んでいたものを、学校での理不尽な抑圧という経験によって世界を股にかけて圧政下にある人々を援助する活動に乗り出そうとする。と、まあ豆鉄砲を食らったような感覚を覚えても仕方がないような説明ではあるが、本来持ち合わせることが予期されていないかった性格が発言したという意味においては、確かに草稿は書き換え可能のようだ。
そして最後に話は政治へと移る。民主と共和が相入れることがほとんどなくなった現代において「もっと建設的な議論ができないものか?」を問うている。もちろん答えはイエスだが、その論拠として両者が持ちつ持たれつの関係にあることを抑えておく必要があるとする。共和党が大々的に掲げる規制緩和は企業競争を邪魔しないという点では一見経済にとって魅力的であるが、民主党のスローガンの一つである環境規制を例に挙げることによって公的機関による規制が公共財や企業外環境に益となる、さらには経済全体で見ても結果的に無制限な自由競争より望ましい姿となることを挙げている。逆も然りで、「揺り籠から墓場まで」の弊害を辛辣に書いている。市場というシステムは奇跡に近い画期的な発明であることは、それ以前ん経済学や社会主義国の惨状を見るに明らかであろう。我が国に照らし合わせれば耳の痛い話になることを承知の上で言えば、要は一方の党が理性的たるには敵対する他方の党が十分な力を持ち合わせていることが前提条件となるようだ。そして相手方の道徳的基盤を理解し同時に自分たちの価値観を見直すことによって、自他ともにいかにすれ違った議論を延々と繰り広げているかを認識しなければならない。「結局自己他者の理解かよ」と思われたら仕方ないが、その通りなのである。
補遺
何か個別的に、そして本題にはあまり関係がないわけでもないといった程度の知識として学んだことを挙げるとすれば、まずはギリシャの理性に関する価値観と言ったところか。プラトンの『ティマイオス』には、完全なる神が作った人間は本来完全なる形、すなわち球体であったという。しかし完全でないものが作った肉体は球形をしておらず、そこで神は完全なる理性を不完全な肉体から遠ざけた。故に頭は球体で体から離れている。ちなみに、不完全な体は球体にならんとするため、自らを補う別の存在を求める。これが男女が繋がろうとすることの本質であると言われる。まあ後ろの話は高校で聞いたんですが。球体や円が完全なる図形であるという考えはかなり色濃く根付いたようで、先にあげたガリレオ・ガリレイはティコ・ブラーエとヨハネス・ケプラーによる詳細な観測の結果ほぼ間違いないとされた「惑星の公転は楕円軌道を描く」という事実を、惑星位置が楕円軌道に基づいて予測されるまでに確実となってもなお、最期まで受け入れなかったという。
次いで背信に対する批判の強さも挙げておきたい。例えばコーランでは非アラブ人、とりわけユダヤ人の不道徳に注意せよとしているが、決して「殺して良い」とまでは書かれていない一方で、アラブ人による裏切りは拷問虐殺に匹敵するものとしている。またアリギエーリ・ダンテ『神曲』の地獄篇で地獄の最深部、堕天使ルチーフェロの下にいる最も罪深き罪人は、イスカリオテのユダに代表される裏切り者である。
最後に、この本の一番最初、タイトルの裏に記されているスピノザの言葉を挙げたい。
私は人間の行動を、笑ったり、悲嘆したり、憎んだりせず、理解しようと努めている。
スピノザ『国家論』(1676)
これこそ著者ジョナサン・ハイトの根底にあるものであり、そして我々が他人に対して抱かなければならない感覚であろう。学術書として「〜すべきだ」と言う言葉を極端に排した本書でさえ、このメッセージだけは明確に伝わってくる。