シン映画日記『セールス・ガールの考現学』
新宿シネマカリテにてモンゴル映画『セールス・ガールの考現学』を見てきた。
ウランバートルの女子大生がアダルトグッズショップで働く、オフビートなコメディ&ヒューマンドラマ。これまでのモンゴル映画を覆す、現代のモンゴルの若者・都市文化とロックへの造詣深さを見せるセンス溢れた秀作だった!
ウランバートルの大学で原子力学を学ぶ学生のサローンは友人ナモーナから頼まれ、アダルトグッズショップでバイトをすることになる。店番だけでなく、クライアントへのデリバリーもあり、サローンは早々にバイトを辞めようとするが、オーナーのカティアのミステリアスな魅力に徐々に惹かれ始める。
モンゴルというと大草原に放牧、大き目のテントに住んでいるなど、それなりにイメージがある。
『天空の草原のナンサ』や浅野忠信が出た『モンゴル』や柳楽優弥主演の『ターコイズの空の下で』などがまさにそうだ。
しかしながら、本作のモンゴルの街はとにかくモダンかつ都会的でカラフル。
本作の監督の狙いはまさに従来のモンゴルのイメージからのギャップと束縛された社会や生活からの開放にあると思う。
アダルトグッズのお店や店の主人のカティの奔放な生き様、随所に散りばめられたロックなどがまさにその象徴である。
清楚な女子大生が怪しげなアダルトショップで働き、そこにハマる様はなんともおかしく、面白い。
しかしながら、それまでに20年近く親の言うことを聞きながら育った主人公サローンには概ね楽しみながらもそれまでの生き方とは反する倫理観に心の奥底には拒絶反応がある。そこを繊細に描いている。
とにかく監督の演出が上手く、冒頭のナモーナのエピソードから映画の方針が現れ、終始それに沿った作りになっている。それはサローンがアダルトグッズのお店で働くきっかけになるちょっとしたシーン。バナナを使い、見る側が「こうなったら面白いな」と頭に思い描いた動きをやってくれる。
こういうシーン、ショットが見たい、こういうトラブルがあったら面白いなというようなことが次々と起こる。
それは現代のウランバートルの描き方も同様。ただモダンでオシャレで都会的なだけではなく、街の外れの郊外のシーンや市場のシーン、街中に微妙に粗雑な建物が少しある所を映すなど。多少の背伸びをしたオシャレさはあるが、比較的ありのまま描いている。
それでも主人公サローンが住む家やカティが住む家など、どこもかしこもハイソサエティというか、意識的に西洋風である。けど、登場人物の9割がモンゴル人なので、「あ、やっぱりモンゴルの映画なんだ」と改めて分かる。
この映画における街や人々が住む家のモダンさは中国映画のそれさえも遥かにモダンである。中国映画でさえ『小さな麦の花』では藁葺きの家が出てきたりする。韓国映画ならば『別れる決心』や『パラサイト 半地下の家族』辺りは日本と変わらないモダンさがあったりするが、『セールス・ガールの考現学』は娘・息子を大学に通わせられる家庭とあってか日本や韓国の家庭の風景と遜色ない。
そのモダン要素の手助けの一端を担っているのが音楽。その大半をモンゴルのシンガーソングライターのマグノリアンの曲を使っているが、これがU2や80年代のデヴィッド・ボウイのようなモダンなロックで、映画の都会的な雰囲気にぴったり。
それと、主人公サローンを演じたバヤルツェツェグ・バヤルジャルガルのキュートさ、これがまたいい。一人だけモンゴル人離れした可愛さで、一昔前一世風靡したインリン・オブ・ジョイトイに似ているが、彼女よりもさらに清楚さがあり、彼女の魅力を上手く使えた映画でもある。
これに細木数子にそっくりなアダルトショップの店長のミステリアスさで映画をより深い方向に持っていく。この細木数子似の親ロシアなエッセンスがロシアに近いモンゴルらしさなのかもしれない。
パンフレットを見るとジャンチブドルジ・センゲドルジ監督は黒澤明やアンドレイ・タルコフスキーの影響を受けたと書いてあるが、
赤を上手く使った色使いやロックを使うあたりはアキ・カウリスマキやジム・ジャームッシュに通じるものを強く感じられた。
ほんの少し冗長な部分もあるが、概ね映像センスでカバーしている。
ミニシアター作品としては珍しくフライヤーの期待どおりで、そこから感じ取れるセンスが映画に溢れている。