いつだって、「真ん中」がいい
もうまもなく、今年も半分になる月を迎えて。「ああ、もう今年も半分か」とか「早いな」とか、おそらくそう思うんだろうけれど、それもただ、なにかに、だれかに決められていることでしかない。
1年は、12ヶ月で、来月は6月で、半分になる。そんなふうに。
昨日が終わり、今日がくれば、また明日を迎える。
同じようにある1日を、どう過ごしていくか、なのかなと思う。
だからいつだって「真ん中」がいいと思う。
自分が戻ってくる、心地のいい真ん中があるといい。
真ん中とは
仏教の言葉では、「中庸」と言われ、過不足なく調和がとれていることを示す。
中庸という言葉は、ぼくはわりと好き。何かが多すぎることもなく、足りないということもなく、ただなんとなく、いい感じ。そんな感じがする。
真ん中を思うと、こんな言葉たちが浮かんでくる。
あなたは何を思い浮かべるだろうか。
真ん中とは、一番いい感じのところなのかもしれない。
それは自分にしかわからなくて、でもときどき自分にもわからなくなる。真ん中が見えなくて、どこだったか戻れなくなって。悩んだり、迷ったりする。
いつも、のほうがいい。でも、いつもいれるわけじゃない。
そんな自分にとっての真ん中を見つけられたら、きっともったいないと思えると思う。大事にしないことが。悩むことが。迷うことが。怒ることが。揺れることが。止まることが。滞ることが。
ただ流れるように、身を任せ。身体の中は、空っぽ。
思うままに、いや、思う間もなく、「あっちがいい」「こっちがいい」に自然と身体が動いていってくれる。
ピッ。ピッと素早いわけでもなく。スッと動くわけでもない。
ぬと。ぬた。ぬたん。ぬたあん。って。
それでも身体が軽いような。どこへでもいけるような。このままの感じでどこまでもいきたいのに、ずっとここにとどまっていたいと思えてしまうような。
そんな真ん中を見つけられるといい。
自由になりたいと思っていたけれど
ぼくたちは自由で、どこまでも自由。
この言葉の意味が、ずっとわからないでいた。わかっているようで、腑に落ちていなかった。
「完璧に決まっていて、それが故に完全に自由」
でも今はわかったような気がする、そういう解釈でいいのかもしれないと思えている。
それが自分の真ん中だから。
ぼくたちは生きている。そうしてどういうわけか、己があって、自分という人格がある。自分の意思があって、脳があって、自分なりに考えることができる。
たまたま、今この瞬間を生きていて、自分という人格があるだけなんだ。それは父と母がつくってくれたものだけれど、たまたま天に与えられたんだともぼくは思う。
人間として(他の生き物に人格があるかはわからないけれど、他の生本野として生きている可能性もあったけれど)、今この身体を与えられて、今生きている。
人間、この時代、この自分。完全に決まっている。いつ死ぬかはわからないけれど、いつか死ぬことだけが完全に決まっている。完全に決まっているんだ。
人間として、今この時代に、今ここにいる自分として、生きている間しか生きることはできない。
それが故に、自由。
それ以外、自由。
ああ自由だ、と思う。
それ以外なら、なんだってできる。できるかはわからないけれど、やってみることができる。だって、それ以外は決まっていないんだから。
水を思い浮かべる。水はどこを掬い上げても、水。水であることには変わりない。それが道によって様子を変えているだけ。
雲から降ってくれば雨になる。岩とか石とか土とか、草が作った道を流れれば川になる。それが流れ着いて溜まっている先は海だ。人工的にコンクートで作った場所はダムだ。同じ水が堰き止められている。水道管を通って、蛇口をひねれば水道水が出る。身体が熱くなれば、汗が出る。お腹が減って美味しいものを見ると涎が出るし、悲しければ、涙が出る。おしっこだって出る。
全部、水。完全に決まっている。でも違う。それぞれが違う形を生きている。
全部、人。完全に決まっている。でも違う。それぞれが、男だったり、女だったり。背が大きかったり、小さかったり、目が小さかったり、大きかったり。違う形を与えられて生きている。
だから根っこの部分を、天に預けてある。
それは、この与えられた自分という形。今ある自分を否定しないということから始まるんだ。それだけは決まっていることだから。
それを否定してしまって、どうしてこんな自分なんだ。他人と比べて自分は。こんなことしかできない。あんなこともできない。そう思えば、自由ではなくなる。
この形は決まっていて、でもぼくたちはそれ以外の道を、自分の意思で選んで歩いていくことができる。そういう意味で、人間は完全に自由。
だからもう、僕らは自由を追い求める必要はないんだ。だって、最初から、ずっと前から、もうすでに自由なんだから。
自分の真ん中を
自分の真ん中、探していけたらいいなと思う。
探し方は、簡単。
ぼくの真ん中も書いておこう。
しあわせだと思った。
真ん中はここだった。
心地いいときを思い出す。思い出して、書き出すから、わかっている。わかっているから、考えられる。だから、また戻ってこれる。
戻ってくる方法は、暇をつくることだった。何も考えなくていい。何もしなくてもいいし、何をしてもいい時間。これがあれば、妻さんとの時間を大事にできる。孤独も愛せる。好きなことができる。好きな人たちと、好きな場所で過ごせる。話せる。
居場所をつくることだった。ここにいれたらそれでいいと思える場所。だからそれ以外の場所は選ばないで済む。
この真ん中でいるために、戻ってくる方法がわかれば、それを保つ方法を考えて実践していくだけだ。
ぼくにとっては、書くことだった。書くことで、場所を選ばず、好きなことと向き合えた。苦ないことで働くことができるようになった。
たまたまだったけれど、考えて動いたから、ここまでこれた。
どんな真ん中だっていい。ただその真ん中を大事にできたらいい。戻ってこれたらいい。少しずつ、長く、そこにいれるようになっていけたらそれでいい。
明日がきても変わらず、真ん中を。
これからも生きていけたらいいなと思う。
いつかお坊さんになるのかなあと思いつつ、たぶんわからないけれど、きっと書くことでそれをもうすでにやっているんだろうなともちゃんと思えてる。
もうみんなやっているんだと思う。
言葉にとらわれず、ただの言葉だから。
今日もいい一日。