【哲学小説】ギリシャ自然哲学時代④ 多元論的宇宙観 | プラネタリウムと星々、あるいは多元宇宙の光と影について

 夜空は、まるで磨かれた鏡のように澄み切っていた。僕は、プラネタリウムの薄暗いドームの中で、星空を見上げていた。隣に座るのは、アヤ。大学で哲学を教えている女性だ。室内は閑散としていて、客は僕たちだけだった。

「ねえ、あなた、星空を見てると、この世界は一体何でできているんだろうって、思わない?」

 アヤは、静かにそう言った。彼女の言葉は、まるで遠い宇宙から届く、ささやきのように、僕の心に響いた。

「そうだね。でも、どこか途方もない感じがするよ」僕は、彼女に答えた。数日前、僕たちはこの近くのバーで、世界の根源について語り合っていた。

「そうね。ヘラクレイトスは、万物の根源を「火」だと考えたけれど、その「火」は、常に変化し、流動している。まるで、この世界そのものを象徴するかのようだった」アヤは、少しだけ寂しそうに言った。

「ああ、ヘラクレイトスね。彼は、世界は常に変化し続けていると考えた。その一方で、エレア学派のパルメニデスは、世界は永遠不変であると主張した。まるで、真逆の意見だね」僕は、アヤの言葉に頷いた。

「そうね。彼らの思想は、一見すると対立しているように見えるわ。でも、彼らは皆、この世界の根源的な原理を解明しようと、思考の限りを尽くしたのよ。今日は、彼らとはまた違った視点から、この世界を捉えようとした哲学者たちのことを話したいの。それが、多元論的な宇宙観を唱えた、エンペドクレス、アナクサゴラス、そしてレウキッポスよ」

 アヤはそう言って、プラネタリウムのドームに映し出された、無数の星々を見つめた。

エンペドクレス:四つの根と愛憎のドラマ

「エンペドクレスは、世界は「火」「空気」「水」「土」という四つの元素から成り立っていると考えたの。彼は、これらの元素を「リゾーマタ」、つまり「根」と呼んだわ。そして、これらの元素が結合と分離を繰り返すことで、様々なものが生み出されると考えたのよ。彼は、世界で初めて「元素」という概念を導入したの。そして、これらの変化を司るのが、「愛」と「憎しみ」という二つの力よ」

「愛と憎しみ…まるで、人間の感情みたいだね」僕は、少しだけ皮肉を込めて言った。

「そうね。エンペドクレスは、愛と憎しみを、単なる感情ではなく、宇宙を動かす根源的な力だと捉えたの。「愛」は、元素を結びつけ、調和を生み出す力。「憎しみ」は、元素を分離させ、対立を生み出す力。この二つの力がせめぎ合うことで、世界は絶えず変化し続けていると彼は考えたの。そして、世界の変化は4つの時期を循環するというの。」

「?」

「まず、「愛」の力が支配的な「愛の支配」期。次に、「憎しみ」の力が介入し始める「憎しみの分離」期。そして、「憎しみ」が完全に世界を支配する「憎しみの支配」期。最後に、「愛」が再び介入し始める「愛の結合」期。世界はこの4つの時期を、永遠に循環しているってわけ」

「まるで、世界の呼吸みたいだね」僕は、星空を見上げながら言った。「でも、彼にとって、世界を動かす根本原理は、単に元素や愛憎の力だけではなかったんだよね?」

「そう。エンペドクレスは、万物を動かす原動力として、”プシュケー”(霊魂)を想定した。このプシュケーは、人間を含む、あらゆる生物に宿る生命力であり、世界の生成消滅にも関わっていると考えられていたのよ。彼によれば、魂もまた四元素から成り、輪廻転生すると考えたの」

アナクサゴラス:無限の種子とヌースの秩序

「次に、アナクサゴラス。彼は、世界は無限の種類の「種子(スペルマータ)」から成り立っていると考えたの」アヤは、プラネタリウムの星々を指差しながら言った。「この宇宙に存在するすべてのものは、そのものとなるための種子を持っている。そして、その種子が、無限の組み合わせで混ざり合うことで、この世界の多様な現象が生み出される」

「無限の種類の種子…? それは、一体どんなものだろう?」

「アナクサゴラスは、あらゆるものの中に、そのものとなるための種が含まれていると考えたの。例えば、金の中には金の種が、髪の毛の中には髪の毛の種が含まれている。そして、世界は、これらの種が結合したり分離したりすることで、様々なものが生成したり消滅したりすると考えたの」

「まるで、無限のレシピみたいだね」僕は、思わずそう言った。

「まさにそう。そして、この無限のレシピを操るシェフこそが、「ヌース(精神)」よ。ヌースは、無限の種子を混ぜ合わせ、この世界を形作った、知的な力なの。ヌースは、世界のはじめ、すべてが均一に混ざり合った状態だったところに回転運動を起こし、軽い元素と重い元素を分離させて、現在のような宇宙が形成されたと考えたの」

「なるほど。ヌースは、世界の秩序を創造する力なんだね。でも、そのヌースはどこに存在しているんだろう?」

「アナクサゴラスは、ヌースは宇宙全体に偏在していて、すべてのものに内在していると考えたのよ。ヌースは、世界のあらゆる変化を司る、究極の原理なの」

レウキッポス:原子と空虚のダンス

「最後に、レウキッポス。彼は、パルメニデスの「一にして全体」という考え方に影響を受けつつ、変化する世界を説明するために、「原子(アトム)」という概念を導入したの」アヤは、少しだけトーンを落として、説明を始めた。

「原子…?」僕は、その聞き慣れない言葉に、少しだけ戸惑った。

「そう。レウキッポスは、万物は、これ以上分割できない、不生不滅の粒子である「原子」から成り立っていると考えたの。パルメニデスは、真の存在は変化しないと考えたけれど、レウキッポスは、原子こそが生成不滅の、自ら変わることのできない存在、つまり真の「エオン」だと考えた。そして、原子と原子の間には、「非存在」、つまり「空虚(ケノン)」が存在する。原子は、この空虚の中で運動し、結合と分離を繰り返すことで、様々なものが生み出されると考えたのよ。つまり、レウキッポスは、パルメニデスの不変の「一」を、不変の多数の「原子」へと分解し、それらの結合と分離によって、この世界の変化を説明しようとしたの」

「なるほど。パルメニデスの「一」は、分割できない不変の多数の「原子」へと分解され、その結合と分離によって、変化する世界が説明されるわけか。でも、原子を動かす力は、一体何なんだろう?」

「レウキッポスは、原子そのものが運動していると考えたの。原子の運動は、外部からの力によるものではなく、原子自身が持つ固有の性質によるものなのよ」

機動因の違い:多元宇宙の鼓動

「エンペドクレス、アナクサゴラス、レウキッポス。彼らの宇宙観は、それぞれ異なる特徴を持っているわね。特に、彼らが想定した世界の原動力、つまり機動因は、それぞれ大きく異なっているの」ミナミは、プラネタリウムの星空を見つめながら言った。

「エンペドクレスは、「愛」と「憎しみ」という感情的な力を機動因とし、アナクサゴラスは、「ヌース」という知性的な力を機動因とした。そして、レウキッポスは、原子自身の運動を機動因とした。彼らの思想は、それぞれ異なる観点から、この世界の謎に迫ろうとしていたのよ」

「なるほどね。三者三様の宇宙観だ。まるで、多元宇宙を映し出す、三つの異なる光みたいだ」僕は、星空を見上げながら、そう言った。

「そうね。彼らの思想は、現代の私たちにとっても、世界の成り立ちについて、改めて考えさせてくれるのよ。この宇宙の果てしない広がりの中で、私たちは何を思い、何を信じればいいのか…」

 プラネタリウムのドームは、徐々に明るくなり、星空は、やがて、朝焼けの色に染まっていった。僕たちは、古代ギリシャの哲学者たちが残した、多元宇宙の断片を胸に、再び日常の世界へと戻っていく。

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