【哲学小説】ギリシャ自然哲学時代② ピタゴラスとその学派 | 沈黙の数字、あるいは宇宙の音楽について
彼女との出会いは、ある春のことだった。仕事を終えた僕は、行きつけのジャズ喫茶でカウンターの隅に座り、デューク・エリントンのレコードに耳を傾けていた。すると、どこからともなく現れた彼女が、僕の隣のスツールに腰掛けた。
「ずいぶんと物思いにふけっているみたいね。何か悩み事かしら?」
彼女はそう言って、いたずらっぽく微笑んだ。その瞳は、まるで底知れぬ謎を秘めた古代の壺のように、僕を惹きつけてやまなかった。
「別に、大したことじゃないんだ。ただ、この世界の成り立ちについて、ちょっと考えていただけさ」
僕は曖昧にそう答えた。彼女には、僕がイオニア学派の思想に思いを馳せていたことまでは言わなかった。
「世界の成り立ち? なんでそんなことを考えるの?」彼女は興味深そうに僕の顔を見た。「もしかして、何かきっかけがあったの?」
「いや、別に…。ただ、このレコードを聴いているうちに、ふと、この音楽はどこから来たんだろう、この世界はどこから始まったんだろうって、考えてしまってね」
僕は少し照れくさそうに答えた。
「ふうん、なるほどね。なかなかロマンチストね、あなた」彼女は小さく笑った。「それなら、ピタゴラスと彼の学派について語らなければ、話は始まらないわね」
彼女はそう言って、静かに話を切り出した。ピタゴラス。その名は、僕でさえも知っていた。古代ギリシャの数学者であり、哲学者。直角三角形の辺の長さの関係を表す「ピタゴラスの定理」はあまりにも有名だ。
「ピタゴラスは、万物の根源は「数」であると説いたのよ。彼は、宇宙の秩序や調和は、全て数の法則によって支配されていると考えたの」
数? 水や空気といった具体的な物質ではなく、抽象的な「数」が万物の根源? 僕は少しだけ眉をひそめた。
「数って、ちょっと意外だね。もっと具体的なものかと思ったよ」
「奇妙に聞こえるかもしれないけど、ピタゴラスは、音楽の調和が、弦の長さや振動数の比率によって決まることに着目したの。そして、音楽だけでなく、宇宙全体が、ある種の調和に基づいて構成されていると考えたのよ。彼はこの宇宙の中心に「一者」を配置し、その周りを地球を含めた天体が公転していると考えた。中心火は目に見えない火であり、地球はその周りを回転するため、我々は常にその反対側を見ていることになる。だから中心火を見ることはできないと考えたの」
彼女はそう言って、小さく指を鳴らした。その乾いた音は、まるで宇宙のどこからか響いてくる、神秘的な音楽のように僕には聞こえた。
万物は数である
「ピタゴラスにとって、数は単なる記号ではなく、それ自体が実体を持つものだったの。彼は、1は点、2は線、3は面、4は立体を表すと考えた。そして、この4つの数を足した10は、万物の完成を表す聖なる数と考えられていたのよ」
「数を図形に置き換えるなんて、面白い発想だね。でも、どうして10が聖なる数なんだろう?」
「それはね、10は完全な数と考えられていたからよ。1から4までの数を足すと10になるでしょ? これは、点から立体までの、世界の基本的な構成要素を表していると考えられていたの」彼女は微笑んで説明してくれた。
「ピタゴラス学派は、奇数と偶数にも特別な意味を見出していたわ。奇数は、限界や形を与え、秩序を生み出す男性的な原理とされ、偶数は、無限や無秩序を表す女性的な原理と考えられていたの。万物は、この奇数と偶数の相互作用によって成り立っていると彼らは考えたのよ」
「奇数と偶数にも、そんな深い意味が隠されていたなんて…!」僕は感嘆の声を上げた。「まるで、宇宙の秘密を解き明かしていくみたいだね」
「そうね。彼らにとって、数は、単なる計算のための道具ではなく、宇宙の真理を解き明かすための鍵だったのよ」
「ピタゴラス学派は、宇宙を「コスモス」と呼んだわ。コスモスという言葉は、もともと「秩序」や「調和」を意味する言葉。彼らは、宇宙を、数という法則によって秩序づけられた、美しい調和の世界だと考えたのよ」
コスモス。秩序と調和。それは、混沌とした世界に生きる僕たちにとって、ある種の憧憬を呼び起こす言葉なのかもしれない。
輪廻転生と魂の浄化
「ピタゴラス学派は、輪廻転生、つまり魂の不滅も説いていたわ。彼らは、肉体は死を迎えるが、魂は死後も生き続け、別の肉体に宿って、何度も生まれ変わると考えたの」
輪廻転生。それは、古代エジプトやインドの思想にも通じる、普遍的なテーマだ。死は終わりではなく、新たな始まりの可能性を秘めている。
「魂が何度も生まれ変わるなんて、少し怖い気もするけど、どこか魅力的だね。でも、どうして魂は浄化されなければならないんだろう?」
「彼らは、魂が最終的に神的な世界へと至るためには、数学や音楽を通して、魂を浄化していく必要があると考えたの。数学や音楽は、魂に秩序と調和をもたらし、神的な世界へと導くための修行と考えられていたのよ」
数学や音楽が、単なる学問や芸術ではなく、魂の修行の手段として捉えられていたとは。古代ギリシャの人々の精神性の高さに、僕は改めて驚かされる。
「ピタゴラス学派は、魂は肉体という牢獄に囚われていると考えていた。そして、魂は、肉体から解放されることで、本来の純粋な状態、すなわち「ハルモニア」(調和)を取り戻すと考えたの。彼らにとって、音楽は、単なる娯楽ではなく、魂の調和を取り戻し、神的な世界へと近づくための、重要な手段だったのよ」
「音楽が魂の調和に繋がるなんて…、なんだか、このデューク・エリントンの音楽が、違って聞こえてくるよ」僕は、感慨深げにレコードに耳を傾けた。
「ピタゴラス学派の思想は、後のプラトンをはじめとする、多くの哲学者たちに影響を与えたわ。彼らの思想は、現代の私たちにとっても、世界の奥底に潜む、神秘的な秩序と調和について、改めて考えさせてくれるのよ」
彼女はそう言って、カウンター席から立ち上がった。その姿は、まるで春の幻影のように、ぼんやりと霞んでいく。
「ねえ、君の名前は?」
僕は思わず、彼女に問いかけていた。
「私の名前? それは、また別の機会にでも。さようなら」
彼女はそう言って、静かにジャズ喫茶を出て行った。残された僕は、彼女の言葉の意味を反芻するかのように、再びデューク・エリントンのレコードに針を落とした。夜の帳が街を包み込む中、スピーカーから流れ出す物憂げなメロディーは、まるで宇宙の神秘を奏でているかのようだった。
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