[ Chapter 3 ]分断と統合
私たち現代人は「宗教離れ」をしているように見えるが、それは「お寺」や「教会」といった物理的な場所に近づかなくなっただけで、日常の生活の中に、キリスト教や仏教、各国の神話などの精神性というのは遺伝子のように深く身体に刻み込まれている。
だが私たちは「科学」の思想に強く支配されているために、それを感じないでいる。
「科学」は箱という意味では宗教と何ら変わりがない。
例えば、その主たる例は「時間」である。
私たちは当たり前のように時間というものが直線的に「過去」から「未来」へと進むと思っている。そのような時間感覚があるために、仕事で昇進したりお金を稼いだりすると言ったように「自分を改善していく」といったようなことを考える。
「老化していく」ことも同様で、「死んでいく」ことも同様で、
歳をとるにつれて、身体機能はどんなに運動をしている人であろうが衰えていく。
整理された部屋の中も、熱々のコーヒーも、熱烈な恋愛も、いつかは冷め、崩れ落ちてしまう。
どんなものも必ず崩壊していく。自ら壊れていく。
それは当たり前のことである。
そんなエントロピー増大の法則に支配されたこの宇宙で、少しでも崩壊するスピードを緩めようと工夫して出来上がったものが「科学」という文化なのだろうと思う。
だが現代人の多くは(物質的・外面的に)「改善」することを望んでいる。
お金をもっと稼ぎたいとか、
もっと豊かな生活をしたいとか
もっと可愛くなりたいだとか
そのようなことを考えられるのも、私たち現代人が直線的な時間感覚で生きているからである。人類が時間を分類し一日が24時間だと思い込んでいるからである。
だがそのために人類は、「壊れていく」という当たり前のことを、怖がる生き物になってしまった。
だが「科学」が悪いというわけではない。
人類は物事を「分けないと」見えないのである。
細胞1つとっても、同じようなことが言える。
細胞は核や細胞膜や液胞といったような1つひとつの器官が個々に働いているのではなくて「調和的に」「全体性を保ちながら」その役割を果たしている。
だが人間は細胞をそれぞれの器官に分けて記述しないことには、細胞の働きは見えてこない。
このように他人に何かを伝えるためには世界を分けて考えるしか他がないのである。
それは宗教においても見られることである。
創世記でも神は「光と闇」「天と地」「陸と海」「太陽と月」といったように世界を分けて創造したと言われているが、
このように「分類する」といったことは科学が生まれる以前から人類に根強く存在しているものであり、手放せないものでもあるだろう。
だが手放せないからといって、分類するというプロセスを毛嫌いするのではない。
「無分別の分別」という精神が大事なのである。
それを簡単な言葉にすれば
「世界が分かれていないことを知りながら、世界を分けるというプロセスを行う」
ということである。
例えば、現代に存在する生きづらさとしてHSP,LGBTQ,不登校など色々な名前がついているが,それは名前をつけないと,現代のように目を惹くような広告が多い空間では見つけてもらえないからである。
痛みに名前をつける上で「痛みは元々分けるようなものではない」という前提を持っている人であればいいが,そのような前提を持っていない,もしくは自覚していない人がいると「私とあなたの痛みは違うから」といったように分断が起きてしまう可能性がある。
同じ「名前のある痛み」を持った人で集まっても満たされない感覚はここからきているのではないかと思う。
このような現代に潜む生きづらさを癒すために,
禅的なアプローチが意味を成すのではないかと考えている。
現代らしい言葉で言えば「リトリート」であろうか。
統合性の回復かつ,無分別の分別の精神の獲得。
それが「名前のない痛み」を癒す1つの糸口になるのだと,信じている。
[ 続く]
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