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苦手なタイプが推しになったら、人生が激変した。

体育会系が推しになった。
1910年代、陸軍直属の中学校にて前線部隊の若頭をしていた人物である。
最も、漫画の中の人物だけれど。

もし、中学生だった頃の私にこの事実を教えたら、ショックでひっくり返ると思う。というのも、当時の私は、体育会系の人には苦い記憶しかないからだ。
現実の体育会系集団によって、私の人生はどん底まで突き落とされた。
でも、そこから這い上がるきっかけをくれたのも体育会系のひとだった。
「人は人によって傷つき、人によって癒される」という言葉を聞いたことがあるけれど、まさしくその通りのことが起きたのだった。

たった5ヶ月、されど5ヶ月。
私の価値観と人生が大きく変わった話を、これからさせていただきたい。

【※この記事では、いじめの経験を書いていますので、苦手な方は読まない事を推奨致します。】


いじめとスクールハラスメントで、8年間寝込んだ青春。

私はここ最近まで、正直言って体育会系の人が苦手だった。
私が入った寮付きの中等教育学校で、私をいじめた人達がそうだったから。

自律神経失調症と、背骨が2本欠けている椎間板ヘルニア持ちだった私にとって、
・朝6時に起こされて点呼
・体調が悪くなると「精神的に弱い」と決めつけられる
・ヘルニアが悪化するからできないだけなのに、「さぼっている」と言われる
などといった毎日は、文字通り地獄でしかなかった。
学活の時間、一挙手一投足を揃えて行進している人達のビデオを見せられ、「こんな風に一致団結しましょう」と言っている担任や、全校生徒の前で「先輩の言っていることは全部正しい。それが理不尽であっても。理不尽は正義」と叫んでいるクラスメイトを見て、私はとんでもないところに来てしまった、と遠い目をしたものだった。

周りの人たちはあまりに元気すぎた。病弱な経験をしたことがなくて、「やる気さえあればできるのに、やらないのは精神的に弱い」と決めつけてきたので、私の味方は誰もいなかった。本当に具合が悪いのに、仮病だとか、甘えてるだとか陰口を叩かれて、寮母さん達にすら白い目で見られて、余計に辛かった。
それでかえって体調が悪化し、私の体温は一時期34.8℃になったことがある。今思い返せば、よく生き延びたと思う。

私はあの学校では異端児だった。欠点だらけの人間だった。
だから事あるごとに、先輩に目をつけられて、呼び出されて怒鳴られた。その殆どが理不尽な内容で、私はストレスのはけ口にされているにすぎなかった。

生徒とは誰とも仲良くなれないと悟った私は、勉強に食らいついた。成績が良ければ少しは認められると思った。
けれどそれは逆効果で、同学年の女子たちはあの手この手で私の成績を落とそうと躍起になった。
教科書を盗まれ、宿題は名前を書き換えられて、挙げ句、私の部屋のベッドが勝手にされて駄弁られることもあった(私の部屋を勝手に使っているのに、私を話の中に入れてはくれなかった)。当時の私に人権というものはなかったように思う。

それでも私は、勉強をやめなかった。
でもそれは、先生達にとっては、「自分の出世のための道具」でしかなかったのかもしれない。
色んな教科の先生に、それぞれの科目の研究やコンテストに出るよう強要された。体調不良の中、私ばかりが学年代表に選ばれ続けるのが辛くてキャパオーバーで、ある時「無理です」と言ったら、思い切り怒鳴られたことを覚えている。
今では『スクールハラスメント』と言われているそれと、寮内でのいじめで、私の心は本当に、ボロボロになってしまった。

「もうこれ以上、この学校にいたら死ぬ」
本気でそう思い、退学を決めた私に対して、担任や学年主任が、掌を返したように冷たくなった。
私は彼女達に、「自分たちの言うことを聞く子」としか思われていなかったのだ。
自分たちの教え子ではなくなるとなった途端、成績がいいことに対しても、「調子に乗るな」と言われたし、私のいじめに対する訴えはことごとく無視された。
後で分かったことだが、私がいじめによって退学したことは隠蔽されて、「自分たちは止めたけど、無理やり退学した」という風に説明されたという。私が泣きながら書いた、学年全体への痛切なメッセージも読まれず、いじめられていた私に少しでも優しくしてくれた子に宛てた手紙も、破棄されていた事が分かった。

私は、いわゆる青春という時代に、心をズタズタにされたのだ。

もちろん、いわゆる体育会系の人が、みんなこんな風だとは思っていない。
けれど、少なくとも私に起きた事はこういった事で、私は重いうつ病とPTSDになり、何年もほぼ寝たきりで過ごした。

同世代の女の子達が歩いているだけで、いじめられた時の記憶が、その時の空気の匂いまで鮮明に思い出されて、外出ができなくなってしまった。
元気に過ごしている人たちを見るたびに、どうして自分は健康じゃないんだろうかと苦しくなった。
ストレス過多により文字が記号にしか見えなくなり、大学受験もできなかった。
大好きだった読書や小説を書くことも、できなくなった。
「どうして、生きているんだろう」
そう呟きながら、毎日毎日、何年も泣き暮らしていた。

それがようやく良くなったきっかけの一つが、推しとの出会いだった。

尊敬する先生の新連載

過酷な寮生活の中、退学する前に生きるのをやめずに済んだのは、漫画家である椎橋寛先生の作品との出会いのおかげだった。

椎橋先生は、人の優しさを描くのがとても上手だ。人と違う特徴に悩み苦しむ主人公が、それでも自分らしく生きる道を切り拓いていく姿に何度も心を打たれて、私もそうなりたいと思ってきた。

そして現在、先生が連載していらっしゃるのが『岩元先輩ノ推薦』である。
1910年代、陸軍直属の中学校に所属する主人公が、繊細で人と違うことに苦しむ能力者たちを救って、学園に『推薦』する物語だ。

連載は2021年から始まっているが、正直に告白すると、私は今年の5月まで、作品をまともに読めていなかった。

私にとって、『軍部』に対するイメージは、かつて通っていた中等教育学校と似ていた。皆が同じ方向を向いていなければいけない。そうでなければ酷い目に遭う。そんな風に捉えていた。

陸軍直属の学校だから、当然、体育会系の前線部隊もいる。それに寮生活である。私にとってはトラウマを想起させることが多すぎて、それでも尊敬する先生の作品だから読みたくて。そっとページを開いては、フラッシュバックを起こし、苦しくなって閉じる、ということが続いた。

そもそも私は、日本近代のことも若干苦手だった。戦争に向かっていく世の中を辿っていくのがとても怖かった。祖父が第二次世界大戦で、腹部に銃弾を2発も撃ち込まれながら必死で生きたその体験記を読んでいるからこそ、恐ろしかった。それに当時、自分の人生に絶望し、死なないようにすることが精一杯だった私にとって、日本近代を扱っている作品に触れるまでの心の余裕がなかったのだと思う。

それでも、私は椎橋先生の作品を読むことを、心のどこかでは諦めていなかった。作品の公式Twitterや、先生ご自身のTwitterの通知は常にチェックしていたからだ。でも、やはり読む勇気が出なくて、Twitterを閉じる日々が続いた。
そんな日々は、ある日突然、転機を迎えることになる。

推しができて、世界が変わった

5ヶ月前、椎橋先生がご自身のTwitterで、最新話の見どころを一言、呟かれた。
マグロを2尾も担いだ、元気いっぱいな少年のコマを添付して。
そのキャラクターは前線部隊の若頭で、私が最も苦手なはずのTHE・体育会系の人物であった。
でも、そんなことがどうでもよくなるくらい、私はその笑顔と圧倒的太陽パワーに、これまでの恐怖やらトラウマやらをふっ飛ばされた。

推し、爆誕の瞬間である。

その瞬間から、私が見えている世界は、少しずつ変わり始めたのだった。


推しができたことで、私はようやく『岩本先輩ノ推薦』を読めるようになった。推しのことをもっと知りたいと思ったからだ。
登場頻度はそこまで多くなかったものの、プロフィールや登場回を読んでいくと、推しは、心も身体も元気いっぱいでありながら、周りの人にも優しくできる、非の打ちどころがなさすぎる人物だと判明した。圧倒的な太陽属性だった。私はそのあまりの眩しさに、体育会系の人に対しての苦手意識を吹き飛ばされた。
そして推しは、主人公の友達という重要なポジションだと知った。こんなにすごい人に「友達になりたい」と思わせる主人公はどんな人物なのか、詳しく知りたくなって、推しが登場していない回も読んでみた。
そうしたら、作品に溢れている『優しさ』に気づくことができるようになった。
作品に出てくる能力者たちは、異能力を持っていることで社会から弾かれたり、孤独に生きたりと、悲しみを抱えていた。その悲しみに寄り添いながら、居場所を推薦する主人公。たとえ敵となるかもしれない相手に対しても、敬意を払いたいと考える彼の姿に、心を打たれた。同時に、そんな彼を友達として支えている推しのことがもっと好きになった。
推しがどうやって主人公と友達になったのかは、まだわかっていないけれど、いずれ語られると思う。その時が楽しみなので、私はこれからも、何としても生き延びたい。

それから、推しのおかげで陰鬱としていた気持ちが晴れて、心の奥のスペースにいっぱいに溜まっていた泥のような何かが取れて、そのぶん心に余裕や、前向きな気持ちを持てるようになった気がする。
だからこそ、『岩本先輩ノ推薦』の舞台である1910年代をはじめとして、明治・大正、そして昭和の時代のことを知りたいと思い、少しずつ調べるようになったのだと思う。
戦争の影が見え隠れするのは、相変わらず恐ろしいけれど、どうしてそうなってしまったのか、これからの世界の平和のためにも学んでいきたい。そんな前向きな気持ちが持てるようになった。

たくさんの「変化」

変化はそれだけではなかった。小説がまた書けるようになったのだ。
文字が記号のように見えるようになってしまってから8年ほど。その間に少しずつ文字を読めるようになってはいたが、一番大好きなはずだった小説を書くこと、そして読書はできないままだった。
読もうとしたり、書こうとすると、どうしても気持ちが悪くなって、ストップがかかってしまっていた。

でも、推しができてから、また物語を書きたい、推しのように、読んだ人が元気や希望を持てるような小説を書いてみたいと思えるようになった。
最初は二次創作をイベントに出すつもりで書いていたけれど、noteの創作大賞の存在を知ってから、「オリジナルの小説を書きたい」と思うようになった。
ずっと前から、設定だけはぼんやりとできている作品はたくさんあった。それを文章化できないことがいつも悲しかったのだけれど、「今ならできるんじゃないか」と思った。
そして、「まだ小説を読めるまでに回復していないのに、小説を書く」奇妙な状態が始まった。
最初は数行書いただけで体調を崩していたけれど、少しずつ慣れて、応募締め切り直前の数日間は一日中、寝る間も惜しんで書いて、なんと完結させてしまった。
初めてのオリジナル小説は、10万文字超えの長編となった。
それが自信につながって、小説を読もうという気持ちになった。
家族から借りた本を、思い切って開いてみた。
1日目は数ページで倒れてしまったけれど、次の日から自然と、「続きが読みたい」と思えて、結局2日で読み終わってしまった。
8年ぶりの小説を、心から「楽しい」と思えた。

私は、失ってしまったものを、推しのおかげで取り戻して、また前を向けるようになったのだった。

これからは、楽しい人生を送るんだ

今は、「推しみたいに元気いっぱいになりたい」と思って、少しずつできることを探している。
ヨガをやってみたり、早起きを頑張ってみたり。
まだまだ寝込む日も多いけれど、1日の中で落ち込んでいる時間がだいぶ減ってきて、少しずつ人生が上向きになってきたのを感じる。
それは、明らかに推しのおかげである。推しの顔を思い浮かべるだけで自然と笑顔になるし、「元気になりたい」と強く思えるからだ。
これまで無理をしすぎて倒れ、できなくなっていた仕事も、明日から新しい職場で再スタートする。
思えば、面接の時は5人もの人に囲まれたけれど、私はほとんど緊張しなかった。
「推しならこの状況でも、きっと大丈夫」という確信があったからだった。

「推しならこんな時、どう考えるだろうか」
「推しならどう行動するだろうか」

そんなふうに考えながら日々を過ごしていくうちに、生活がかなり改善してきた。たった5ヶ月間で、本当に変わった。推しには本当に感謝しかない。
もはや私にとって、推しは守護神のようなものである。これからもきっと、私が生きていく上で、いろんな指針をくれると思う。その度に私は救われて、またひとつ成長するのだろう。

今、苦しんでいる人たちに伝えたい。この先もいいことなんてない、と思っている人たちに。ある日突然、思いがけない出会いによって、人生は急に大逆転を始める。きっとまた、毎日が笑顔で溢れる日々が待っている。だからどうか、諦めないでほしい。


中等教育学校を退学した時、「人生終わった」と思った。
それからは本当に地獄だった。
でも、推しと出会って、人生が好転し始めて、「生きててよかった」と心から思った。
こんな未来を、当時の私は想像していなかった。
未来が楽しみになるなんて、思ってもみなかった。

推しにもらった力で、私はこれからも楽しく生きていく。

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朝日みう
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