子供に何を教えるか…一番の根底の部分の話
前回の投稿で、次の回では「子の『代理権』『同意権』が子供の意思に反した権利の乱用になってりゃしないかな?」ってお話をしようといったのですが、私のその話をするには前提として私の子育て論の根底の部分を話しておかないと誤解を招きかねないという気がしてきました。
「根底の部分」のようなのですが、よく考えると「最終的な目標」でもあるところのような気がします。
こんな話は人に話して意味があるのかという気もしないわけではありません。
ただ、私はお金以外のことで子育てで悩む時期は過ぎ、残された子育ての時間を楽しんでいるところですが、まだ新米パパ・ママさんで既に「子育てに疲れた」「このまま続けていくかと思うとゾッとする」って人もいるかと思います。
前回「子育てに正解、不正解はない…全て正解」といいましたが、夫婦で共有している二人で考えて考えて考え抜いた子育ての信念を持っていることは必要だと思っています。
その信念を持っていると子育てに疲れた時にまた気持ちを持ち直すことができます。
この17年間の子育てで感じた身体的精神的疲労、苦痛より、子供たちの成長からもらった感動、喜び、エネルギー、元気の方が何億倍多かったことか…こういう先輩がいることを覚えておいてください。
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まず、子供たちには「何を教えるか?」
私はとにもかくにも一番大事な最初にやることは「社会のルールを教える」ってことだと思っています。
もちろん親御さんの中には「子供たちの個性を芽生えさせ育てるためにとにかく自由にやらせる」という教育方針の方も多いようです。
ただし、私の中には「全て自由っていうのは一番不自由な状態である」という考え方があります。
自由に集められた見たことない人たちが500人集まる場所で突然「さぁ、皆さんの前で自由に話してください」といわれても、よほど人前で話しなれた人は一瞬戸惑いながらも話し始めるかと思いますが、ほとんどの人は生き地獄、下手すれば失神、失禁してしまうかも知れません。
アニメ『ハイキュー!!』のファンだけ500人が集まる場所で『ハイキュー!!』の大ファンであるあなたに突然「『ハイキュー!!』の魅力について自由に話してください」といわれると、もちろん最初は戸惑うでしょうが、先述した状況よりかなり「自由」に話せる気がするでしょう。本当は「自由」じゃないんですけど。
実は「自由」にするよりも自分に好都合な「条件」を付した方がより「自由」になることが多いんです。
「自由」ついでにお話しすると…「○○の自由」といえば『日本国憲法』。
『日本国憲法』なんて日常の生活には用がなさそうですがこの条文の中には日本人の「自由」や「権利」に関する記されています。
しかし、これらの「自由」や「権利」を行使するにはたった1つ条件が定められているんです。
それは「公共の福祉に反しないこと」。
「『公共の福祉に反しないこと』ってなに?」…簡単にいうと「他人が嫌だと思うことはしてはいけない」ってことです。つまり他の人の自由・権利を侵害している自分の自由・権利は存在しないということ。
「○○をしない」という行動はネガティブな感じがするので、「他人が嫌だと思うことはしてはいけない」をアクティブ、ポジティブに言い換えると「周りの人を思いやる」ということ。
そしてこれが今回の投稿の一番最初にいった「社会のルール」なんです。
「社会のルール」というと「今と昔では常識が違う」とか「人によって色々考え方がある」と反論する人も多いですが、私は「社会のルール」は今も昔も未来もたった1つだけ…「周りの人を思いやって行動すること」。
これを覚えさせてから自由にさせないととにかく面倒臭いんです。
「他人を思いやれない人としての信頼がなくなる」とか高尚な話じゃなくて、子供が他人に迷惑をかけると親が謝りにいかなければいけない。それには時間的金銭的精神的身体的様々な苦労が伴います。ただでさえ子育てで疲れきっているのに、子供が原因でさらに周りにも気を遣うなんてカラダがいくつあっても足りません。
子供はモノゴコロつくまではあまり親以外の人には迷惑をかけません。歩くようになってモノゴコロついて意思を持つようになるととたんに親以外の他人にも迷惑をかけるようになります。
「生まれたばかりの子に『周りの人を思いやる』なんて教えられっこないじゃん🤣」…そりゃそうだ👍️
でも、教える前の土壌作りはできるんです。
「三つ子の魂百まで」…モノゴコロつくまでの3年間にどのように子供に接したらいいか…申し上げたとおり子育てに正解はありませんが、私が考えて行ってきたこと…今回もさわりを話した「真の『自由』ってなんずら?」…を次の回でお話いたします。