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2018年6月の記事一覧
2.2.3. 「茶道=生涯学習/教養」とする先行研究への批判
平成の茶道修練者を扱った研究において,平成前半の茶道が「勉強」という語で表現されているのは,Mori〔1996〕や加藤〔2004〕が明らかにした通りだ。
これも,文化的素養としての文化資本を「勉強」と言い換えていると解釈できる。
「学習」としての茶道
実際に社会教育学の論文では,茶道は全て「学習」として扱われている。
丸山〔1995, 1996, 2000〕も,茶道を「生涯学習における伝統文
2.2.2. 「茶道=資本」とする先行研究への批判
フランスの社会学者であるブルデューは,文化の正当性を維持する条件について以下のように触れた。
「習得と鍛錬の方法的組織化を介して伝達することを特に任務とする機関つまり学校によって,訓練され,教え込まれた特殊な型の体系に従って組織されている」〔1990a: 96〕
これはまさしく茶道の形態に合致する。
つまり,茶道はまずもって,文化的素養といった個人的「文化資本」であると考えられてきた。
ブ
2.2.1. 「一般」茶道修練者に関する先行研究への批判
歴史上の茶人に関する研究では,過去の史料を元に考察される。
一方で一般的な茶道修練者,特に存命の人物に目を向けた研究は,全て茶道教室内の生徒を対象に行われている。
「若手」茶道修練者
秋田にある裏千家の茶道教室を中心に参与観察を行なった例〔Chiba 2011〕を挙げたい。
そこでは68人の茶道修練者を扱ってはいるが,茶道人口の分布図を物語るように,20代〜30代の生徒はそのうち23人である。
2.2. 茶道修練者に関する先行研究への批判
「茶道団体」を主宰しない大多数の人々
本稿で明らかにしようと試みているのは,あくまで「茶道団体」を主宰する一部の人々が「お茶」する理由とその意義である。
それは,教室に通うに留まる大半の茶道修練者にとっての茶道の意義とは,大きく異なるだろう。
もちろん,両者とも同時代の茶道修練者として,似た動機を有している可能性は極めて高い。
そのため,一般的な茶道修練者にとっての茶道の意義も考察しておきた